歴代長官17人の横顔

【1】三淵忠彦 (みぶち・ただひこ) 【裁判官出身】
 長官在任:1947-1950 〔国民審査での「×」率…5.5%〕

 裁判制度の融通の効かなさに限界を感じ、45歳でいったん退官。民間の法律顧問として人脈を広げ、のちに総理大臣となる片山哲と知り合い、やがて初代の最高裁長官に。
 戦時中は米軍の空襲で渋谷の家を焼かれており、しばらくは小田原市から電車で最高裁に通勤した。「サラリーマンの皆さんが席を確保してくれた。あの厚情は生涯忘れない」ともコメント。
 在任中はガンとの闘病。裁判所内で倒れたことも。雑誌の対談で昭和天皇の戦争責任に言及している。

 
 

【2】田中耕太郎 (たなか・こうたろう) 【法律学者・国会議員出身】
 (1950-1960) 〔国民審査での「×」率…8.1%〕

 史上唯一、閣僚経験者の最高裁判事。東京帝国大学法学部を首席で卒業。カトリック信者で強硬な保守主義者だった一方、国際的な視野も併せ持つ。
 商法の権威であり日本国憲法制定に尽くした松本丞治を学問上の師と仰ぎ、その娘と結婚。参議院議員で、憲法公布時には文部大臣として署名。
 最高裁の長官として就任した際には、新聞の号外が出たほどの大物。
 「私は国家の番犬になる」との表現で、共産主義に対する敵意をむき出しにし、世間の裁判批判を「雑音に耳を貸さず」と言ってのけたことでも有名。その一方で、アトリエを持たない画家志望の少年に、長官公邸で絵を描かせた優しい一面も。
 退官後は、オランダ・ハーグ国際司法裁判所の判事を務めたが、なぜか日本外務省からの待遇は芳しくなく、帰国後は黒塗り公用車での送迎から一転、バス通勤になったという。

 
 

【3】横田喜三郎  (よこた・きさぶろう)  【法律学者出身】
 (1960-1966) 〔国民審査での「×」率…8.2%〕

 第一次世界大戦をきっかけに国際問題に興味を持ち、東京帝国大学で国際法を研究。その立場から、満州事変や大東亜戦争につき「国際法上、正しい戦争とはいえない」と述べたため、右翼や軍部からの攻撃にさらされた。
 一方で、戦後には「今の時点で国連に頼りきるのは無理。集団自衛の方法が現実と理想を調和させたやり方」と述べたため、革新陣営から「変節した」「裏切り」と酷評された。しかし「ぼくは変わらない。ずっと自由主義者で国際協調主義者」と弁明した。
 在任中の大きな裁判は東大ポポロ事件ぐらい。趣味はスケートやテニス。囲碁・棋聖戦審議会の座長や、国際科学技術財団の理事長も歴任する多彩な面あり。

 
 

【4】横田正俊 (よこた・まさとし)  【裁判官出身】
 (1966-1969) 〔国民審査での「×」率…7.1%〕

 父親は、戦前の大審院長。叔父に最高裁判事の霜山精一氏。旧制一高(現在の東大)時代の剣道部の後輩に、5代長官の石田和外氏がいた。自らも剣道4段の腕前。
 戦前からリベラル派の裁判官として知られた。戦後に商法の知識を買われ、公正取引委員会で11年間活躍。仕事終わりに部下を引き連れて、新橋や神田の居酒屋やおでん屋に足を運んだ。「裁判官の世界と違い、視野を大きく持たなければ公取の仕事はできない」と話す。ふたたび裁判所に戻ることになった際は、部下から帽子と背広をプレゼントされる慕われぶりだった。
 最高裁の就任記者会見では「血も涙もある裁判官をつくるため努力したい」と述べた。長官としては珍しく、小法廷での審理にも参加した。

 
 

【5】石田和外 (いしだ・かずと)   【裁判官出身】
 (1969-1973) 〔国民審査での「×」率…7.1%〕

 旧制一高(今でいう東京大学)時代に所属した撃剣部(剣道部)をきっかけに、小野派一刀流など古流の真髄にも触れた。
 一貫した保守派だが、東京地裁時代には帝人事件で無罪判決。判決文で「水中に月影を掬するが如し」と、検察の公訴事実のでっちあげぶりを表現。
 並々ならぬ自信家で、飲むと攻撃的になる酒癖の悪さは有名だった。いきなり人のふんどしを引っぱり出したり、抱きついて一緒に川に飛び込んだり、貴族院議員のバッヂを噛んで曲げたり、ガラスのコップをガリガリかじって血だらけになるなどしたという。
 退官後は東京湾で釣りを楽しみ、「長官のときよりも忙しい」毎日を過ごす。

 
 

【6】村上朝一 (むらかみ・ともかず)   【裁判官検察官出身】
 (1973-1976)  〔国民審査での「×」率…10.3%〕

 父と兄は医者。戦時中は陸軍司政官になり、ジャカルタで敗戦を迎える。抑留され復員後は、司法省で民法や商法の改正作業に携わった。当時は議論の相手をしょっちゅう怒鳴りつける癇癪持ちだったが、最高裁にいる頃はだいぶ丸くなったという。
 最も重視した課題は「迅速な裁判」の徹底で、実際に、就任時点で25件あった大法廷事件を6件に、7千件以上あった小法廷の案件も2千件あまりにまで減らしてみせた。
 最高裁が「右寄り路線」だと批判されたことについて「左から見れば右、右から見れば左にも見える。真正面から見てほしい」とコメント。

 
 

【7】藤林益三 (ふじばやし・えきぞう) 【弁護士出身】
 (1976-1977) 〔国民審査での「×」率…12.1%〕

 初の弁護士出身長官。3歳で父を亡くし、幼い頃から京都の醤油屋で母と住み込みで働いた。
 無教会主義の熱心なクリスチャン。最高裁入りのとき「愛ですよ。エロスの愛ではなく、アガペー。汝の敵を愛す、神の愛じゃよ。私は対立的にものを考えるのが嫌い。裁判官でもアガペーをもって考えるのが基本だと思う」とあいさつ。
 神社行事である地鎮祭への公金支出は政教分離原則に反しないとした法廷意見(津地鎮祭事件)に対し「国家と宗教が結びつけば、宗教の自由が侵害される。少数者の宗教や良心は、多数決をもっても侵犯されない」と、キリスト教徒らしい追加反対意見。
 陽気でおしゃべり、酒に強く、気さくな人柄。公舎の畑でつくった大根を裁判所にも配っていた。

 
 

【8】岡原昌男 (おかはら・まさお) 【検察官出身】
 (1977-1979) 〔国民審査での「×」率…12.2%〕

 初の検察出身長官。先祖は「下級武士」。旧制の小学校・中学校を飛び級で進学し、東大法学部在学中に国家試験に合格。そこから公安検事のエリートコースを突き進んだ。
 しかし、歯に衣着せぬ物言いが災いしてか、やがて特捜部の検察と衝突し、一時期は出世コースから外された。
 最高裁判事の就任時には「私は検察の利益代弁者ではない」と話すも、治安維持を重視する意見を表明し続けた。
 退官後は、トラック1台分の法律書を大学に寄付し「心静かに余生を送りたい」と語っていたが、リクルート事件や佐川急便事件での、検察陣の不甲斐なさに「ムカムカした」といい、当時の法務大臣・後藤田正晴氏に直訴、検察再奮起のきっかけとなった。

 
 

【9】服部高顯 (はっとり・たかあき)  【裁判官出身】
 (1979-1982) 〔国民審査での「×」率…11.1%〕

 裁判所の部内では「コウケンさん」と呼ばれて親しまれた。英語が堪能で、戦後は司法省大臣官房でGHQとの折衝にあたった。米ハーバード・ミシガン・スタンフォード各大学での留学経験もある。
 浅黒い肌の厳つい人相とは裏腹に、性格は温厚で控えめ。最高裁判事になるまで、あまり法曹界で名を知られておらず「私は最も平凡な裁判官で、最も地味な生活をしてきた」と就任あいさつ。よく見るテレビ番組を記者から尋ねられ「天皇陛下みたいですが、言うと差し障りがありますから」とかわしたという。

 
 

【10】寺田治郎 (てらだ・じろう)  【裁判官出身】
 (1982-1985) 〔国民審査での「×」率…14.6%〕

 父も裁判官だったので、幼少時代は転勤が多かったという。東京帝国大学では、日本民法学の権威・我妻栄の門下にいた。「自分では理科系のほうが性に合っている気がするが、半分は父の強要で裁判官になった」と話す。
 最高裁判事の就任時には「いくら理屈が立派でも、結論が実態と懸け離れていてはダメ。裁判は人にある」と話した。夫婦で神田の古本屋街に出かけたりするという。健康の秘訣は、一日に自転車こぎ15キロ、青竹踏み1000回を行うこと。半世紀以上の麻雀歴を誇る。

 
 

【11】矢口洪一 (やぐち・こういち)  【裁判官出身】
 (1985-1990) 〔国民審査での「×」率…10.8%〕

 180センチの長身でスポーツ万能。学生時代はトランプ遊びに明け暮れたというが、裁判官2年目にして最高裁の事務総局に呼ばれる大抜擢。「ミスター司法行政」の異名を持つ。
 法廷の傍聴席で誰もがメモをとることを認める大法廷判決の裁判長。当日に即、全国の裁判所へファックスで判決文を送り、周知徹底を図った。
 あるべき裁判官像について「ちょっぴり法律知識を持つ円満な社会人」と語る。身近な裁判所を目指し、簡裁の統廃合に着手したり、陪審制復活の可能性も探った。
 一方で、規律に厳しく、守衛に対して「(自分に対する)敬礼の仕方がなってない」と、秘書官を通して注意したという話も。
 おしゃべりで大の麻雀好き。退官後は、相次ぐガン手術に加え、心臓ペースメーカーまで入れたのに元気に動きまわっていたという。

 
 

【12】草場良八 (くさば・りょうはち)  【裁判官出身】
 (1990-1995) 〔国民審査での「×」率…11.1%〕

 東京地裁時代に「東大紛争」事件を担当、「制度には必ず矛盾があるが、その取り除き方についてもっと突きつめて考えてほしい」と、ある学生の被告人に言葉をかけた。
 最高裁入りして、わずか3カ月で12代長官に抜擢。そのため、小法廷の審理は結局行わなかったようだ。
 最高裁を退くにあたって「組織が生き生きするためには新しい血を入れる必要があるが、資格が要求される裁判官には簡単に行かない」と述べている。

 
 

【13】三好 達 (みよし・とおる)  【裁判官出身】
 (1995-1997) 〔国民審査での「×」率…8.0%〕

 長官就任時に「立法・行政よりも先回りして意見を開陳することは原則としてすべきではない。裁判所はオールマイティではない」とあいさつ。
 「愛媛玉ぐし料訴訟」大法廷判決では、反対意見。「多くの国民の意識では、護国神社は特定の宗教を超えて、国に殉じた人々の慰霊を象徴する標柱」と述べた。
 最高裁入りする前に夫人に先立たれ、「自分のことは自分でする」と、ひとりスーパーで買い物する一面も。カラオケでは、都はるみの「浪花恋しぐれ」を唄う。

 
 

【14】山口 繁 (やまぐち・しげる)  【裁判官出身】
 (1997-2002) 〔国民審査での「×」率…9.6%〕

 「裁判もサービス。訴訟当事者はお客様でもある」が持論。キャリア裁判官として全国各地を転々とまわっており「函館はイカソーメン、岡山のママカリ、九州は関アジ関サバも美味いよ」と、グルメな一面を覗かせる。
 江戸時代など、近代の庶民生活や裁判制度の研究家でもある。著書に「新井白石と裁判」。座右の銘は「恕(「思いやり」の意)」。

 
 

【15】町田 顯 (まちだ・あきら)  【裁判官出身】
 (2002-2006) 〔国民審査での「×」率…9.4%〕

 穏やかで明るい人柄だが、若いころはウイスキーを飲んで仕事中の眠気を飛ばした伝説も。
 リベラル法曹団体「青年法律家協会」の会員として主導的に活動したが、最高裁から「期待の裏返し」ともいえる様々な無形のプレッシャーをかけられ、34歳で脱会。その頃から判決内容も保守方向へ転回。
 長官として「上の顔色ばかり気にする『ヒラメ裁判官』はいらない」と若手に訓示したが、説得力に欠けるとの指摘もある。

 
 

【16】島田仁郎 (しまだ・にろう) 【裁判官出身】
 (2006-2008) 〔国民審査での「×」率…7.4%〕

 大学時代、一時は小説家になることも夢見たが、「犯罪を裁くことで、世の中の不幸の種を少しでも減らしたい」と、法曹の道を選んだという。裁判官を選んだのは、若い判事補が先輩と自由に議論を戦わせる姿にあこがれたから。
 東京地裁時代には、「ロス疑惑」の審理に携わった。最高裁入りの際は「私は、裁判官に任官して以来、おそるおそる裁判に臨むという初心を貫いてきたつもりですが、年を経るにつれて、ますます人が人を裁くことの重さを深く感ずるようになりました」とあいさつ。
 長官として、新人の判事補たちに向け「裁判官は、人に批判されることが少なく、裸の王様になりやすい。初心を忘れず、謙虚に、人の心の痛みが分かる人になってほしい」と話したことも。
 趣味は読書で、ロシア文学や推理小説を愛読。好きなテレビドラマ(韓流ものなど)も録画して観る。囲碁は3段の腕前。愛犬「マーブル」の散歩が、息抜きで健康法でもあると語る。

 
 

【17】 竹崎博允 (たけさき・ひろのぶ)  【裁判官出身】
 (2006-2014) 〔国民審査での「×」率…6.25%〕

 [現職]

 


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