最高裁逆転判決の、何が「逆転」だったのか
本件の在日コリアン女性は、東京都が1986年(昭和61年)に保健師(当時は保健婦)の採用要件から日本国籍を撤廃したことにより、1988年(昭和63年)に、外国人として初の保健師として採用され、1993年(平成5年)には主任に登り詰めました。その道ではパイオニア的存在だといってもいいのでしょう。
この判決について議論するうえで、ゴチャゴチャになってはいけないのは、この外国人女性は、地方公務員になること自体は実現できている、ということです。ヒラの地方公務員から、もう一段上のステップである「管理職」にならんと望んでおられるのです。
先週の最高裁大法廷判決を、可能な限りスッキリ表現しようとすると、以下のような感じになろうかと思います。
一般論として、それぞれの地方自治体が、それぞれの判断で、条例などを根拠に、公務員として外国人を採用することを、法律(地方自治法)は禁止しているわけではない。↓ただ
職員として採用する以上、平等に扱わなければならない。
↓だとすれば
「管理職に昇進できる可能性は無い」という前提で、ある者をヒラの地方公務員として採用する場合、そういう通常と異なる取り扱いをする合理的な理由が必要だ。
↓では、その「合理的理由」とは何か。
そもそも、日本の地方自治体の統治は、日本国民が最終的な責任を負う。それが「国民主権」なのだ。
↓
日本以外の国家に所属する者、つまり外国人は、その外国との間で権利や義務を持っているのであって、そういう立場にある外国人が、日本の地域住民の権利や義務の内容を定めたりする自治体の管理職に就くことを、日本の法体系は想定していない。
↓そして
地方自治体の管理職という立場には、2段階あると考えられる。
(1)公権力を行使する地方公務員…地域住民の生活に直接・間接に重大な関わりをもつ。
(2)その他の管理職…(1)へ昇進するための経験を積んでいる立場。この2段階の任用制度を採ることも、各自治体の判断に任されている。
↓だから
このような制度を採る判断をしている地方自治体は、外国人に対して、(1)だけでなく、(2)の就任もさせない措置をしたとしても、「合理的な理由」に基づく区別だとして許される。
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↓本件で
東京都は、2段階の管理職制度を採用していた。
↓
そして、保健師なら保健師という専門技術的分野のみを管轄するといった、公権力行使と無縁の管理職のありかたは採られていなかった。
↓だとしたら
(2)のレベルの管理職も、いずれは(1)に就任することのあることが「当然の前提とされていたということができる」。
↓したがって
日本国籍を持たない原告(被上告人)に、管理職昇任試験の受験をさせないという被告・東京都(上告人)の措置は適法。
そして、これまでの判決遍歴を整理すると、こんな感じになりそうです。
東京地裁 | 東京高裁 | 最高裁 | |
A)立法権・行政権・司法権を直接行使する公務員 | NG | NG | NG |
B)公権力行使や公の意思形成に参画するなど、間接的に国の統治作用に関わる公務員 | NG | NG | NG |
C)補佐的事務や学術的技術的な専門分野の事務にたずさわる公務員 | NG (ただし、特別法を設ければOK) |
OK (統治に関わる程度が弱いから) |
NG (いずれ、Bレベルに移行する可能性があるから) |
つまり、在日コリアン女性の請求を一部認容した東京高裁も含めて、かなりミクロなところで結論が繰り出されてきたことがわかります。どの判決も、それぞれの立場で筋を通されていて、「こんな結論、絶対考えられん!」というものはございません。
いずれにせよ、「外国人の公務就任権」というのは、あまり軽々と持ち出すべき性質のものではないと思います。自由や平等という“人権博愛思想”と、各国が持つ文化や公共意識の多様性を確保するための“独立”“主権”。大げさにいえば、このどちらを大切にして、どちらを一歩後退させるか、そのギリギリのせめぎ合いが問題となるからです。こういう意識が極めて低い、私を含めた日本人は、あまりにも平和に浸りすぎてきたのかもしれません。
そんなところに、逆転敗訴した被上告人が、裁判所の「人権意識」を持ち出してきて一方的に批判しようとしても、空しく響いてしまうのは仕方ありません。
人権や民主さえあれば万事オッケーというのであれば、「戦闘終結宣言」後のイラクで、あれだけの数や規模でテロは起きないでしょう。何者かによる独裁で支配されるのは、たとえ同じ国籍・同じ民族であっても御免だけど、外国人に占領されるというのも、また別の大きな拒絶感が生まれてくるものだろうと思います。中には、その拒絶感・不調和を克服するために、自分の命を差し出すことだっていとわない人々もいるのです。
「外国人の管理職就任と米軍の占領では、話が全然違うだろう」とお思いの方もおられるでしょう。たしかに、全然違うかもしれません。しかし、判決後の記者会見で、公費で食べている公務員である被上告人に「世界に言いたい。こんな国には来るな」と公言されてしまった日本と、外国の大統領に「悪」だと名指しされたあげく、異教徒から異文化で染め上げられようとしているイラク。この間のどこで区別の線引きをしましょうかね。日本にいて、アメリカから「支配され慣れ」していると、「国家の独立」という、そのあたりの感覚がどうも麻痺してしまいそうで、気を付けなきゃならないなと思いますし。
つぎは、国籍や帰化の法的意味についても、暇なし貧乏の私なりに、もっと突っ込んで調べたいですね。なんで、本件女性は帰化したがらないのか。「国籍」と「アイデンティティ」が一致しているのか。それとも、国の帰化行政に何か問題があるのか。 …本当は、次回の国民審査対象である才口判事と津野判事が、ともに多数意見に付いてらっしゃるので、このウェブログの趣旨としては、そこまで洗い出す必要は無いんですけどね。
まぁ、現時点で少なくとも言えるのは、粛々と自分のフィールドで与えられた任務をこなす人、自分の中から湧くイメージを世間とうまく調和させて、クリエイティブな才能を発揮する人、そして、とりあえず大きな声を上げて特別視されてみたい人…、こういった人たちは、どの国籍であっても一定割合でいるんだな、ということです。
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