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2009年6月22日 (月)

臓器移植法の改正について、気合いを入れて考えてみる

 臓器移植法の改正案が、衆議院を通過し、現在は参議院で審議されています。

 A~Dまで4つの改正案があったものの、最も臓器移植の「規制緩和」につながるA案が、衆議院議員の過半数の賛成を得たのです。

 その内容は、脳死者が前もって明確に、臓器移植を拒む意思を示していない限り、その家族の承諾を事後に得れば、臓器移植が可能であると書かれています。

 現在は、15歳以上の者が前もって、脳死や心臓死の場合の臓器移植について、認める意思をカードなどで示していない限りは、臓器移植できないことになっていますから、大幅な規制緩和です。

 これは、自分の財産などの処分について最終意思を文書で示す「遺言」が、民法上、15歳以上の者にしか認められていないことに準じた措置だとされています。

 問題は15歳未満の場合です。

 肝臓などは切断しても機能するので、成人の臓器を子どもに合わせたサイズにして移植することもできるかもしれません(違っていたらお知らせください)が、心臓や腎臓などは、それができません。

 なので、同じくらいの年齢の子ども同士で移植を行うことになります。

 しかし、日本国内では、この臓器移植法によって、15歳未満の子どもからの臓器摘出が禁止されてきたので、そうした制限のない外国で移植を受けるしかないという選択をするしかなくなります。

 「選択をするしかなくなる」というより、ここにあるのは、わが子を思う親の感情に他なりません。

 50年前、100年前なら、「これも運命」と延命をあきらめるしかなかった不治の病が、医療技術の飛躍的な進歩によって実現にこぎつけたのです。

 しかし、ヨーロッパでは、すでに日本人患者の受け入れを拒むようになっています。 親日的な国として知られるオーストラリアでも同様です。

 移植でまかなわれる臓器は、その国の患者に優先して「分配」されるという、無理もない方向性です。

 すがるべき国として残っているのはアメリカ合衆国。なので、幼児の心臓移植といえば、決まって「渡米」という流れになっています。

 ただ、アメリカで日本人に臓器移植をする場合は、極めて高額のデボジット(要はお金)を負担させられることになります。 本来は、日本円で1千万円台で可能だといわれる心臓移植も、アメリカで行えば1~2億円、最近では約4億円を要求されるようです。

 客観的には「足元を見られている」としても、仕方のない状況かもしれません。

 これも、アメリカ側にだって「自国民を優先して救いたい」という、素朴な国民感情が背景にあるからではないでしょうか。

 

 しかし、技術の進歩によって救われる命もあれば、臓器を摘出されて、確定的に還らぬ者となった、幼き脳死者もいます。

 脳死とは、人工呼吸器などを付けている限りは、自発的に心臓を動かして生きていける状態を指します。 人工呼吸器など延命装置が発明されて、初めて生じる状態といえるのでしょう。

 少なくとも現在の医学によって、その脳死者の目を覚まさせることは不可能です。ただ、心臓が動いている間は、脳死状態の人でも髪の毛や爪が伸びたりするなど、身体の成長がみられます。

 ここに、脳死を「死」だと、にわかに受け入れきれない家族の感情が湧きおこる源があると考えられます。

 臓器移植法について議論するとき、「日本人の死生観」というキーワードが盛んに叫ばれます。

 たとえば「生前はどれだけ悪事を働いても、自分たちの敵であっても、亡くなったら丁重に弔う」というのは、日本文化に独特のメンタリティかと思います。

 ただ、そのメンタリティを、臓器移植の問題と結びつける根拠として持ち出すのはだいぶ弱いかな、むしろ関係ないんじゃないかという印象です(ほかに日本人に独特の死生観があるとすれば、ご教示くださるとありがたいです)。

 日本人は情緒的で、欧米人は合理主義、非常に大ざっぱにいえばそうかもしれません。

 しかし、脳死状態の子どもを持つ個々の親にとってみれば、呼吸もあるし心臓も動いているわが子から臓器を取り出されることに抵抗があるのは、国や文化圏の差など関係ないと思うのです。

 それでも、諸外国の人々は、どこかで「脳死と死」の問題について、ギリギリのところで折り合いをつけて、ドナーに名乗り出て、今救える命を救っているのでしょう。

 この問題に限らず、持論を補強する根拠として、安易に「文化的背景」や「国柄」を据えるような人たちを、私は疑います。 そこまで世の中は一面的でない。

 そんなに世の中が単純にできているなら、私たち思い悩む必要もないし、書店に山ほど本が売られている意味もないのです。

 

 「臓器移植の場合に限って、脳死を人の死とする」という、今までの扱い自体、お世辞にも自然の摂理に合うとはいえない、きわめて技術的なものでした。

 それをA案は、広く一般的に、脳死を人の死とするという扱いにしようというんですね。「臓器移植の場合」という限定が外れたぶん、不自然さは薄れました。

 そもそも、臓器移植法という、一種の手続きを定める技術的な法律に、「死とは何か」という、哲学的・宗教的・人道的な根幹テーマを据えることは、荷が重すぎるといいますか、ムリがあると思うのです。

  「死とは何か」の定めは、臓器移植法という一種の手続法より、民法や医師法など、もっとふさわしい場所がある気がします。

 こうした基本法の改正問題として話が持ち上がったなら、もう少し国会内での議論も深まった可能性が高かったろうと思います。

 

 また、A案で、仮に可決成立したとして、今現在、脳死状態の人の世話をしている方々へのフォローはどうするのかも問われます。

 「あなたは、死者を世話してるんだよ」という心ないことを、面と向かって言う人はいないでしょうが、そう言っているに等しい内容の法案なのです。

 もしかしたら、今現在、脳死状態で、家族が奇跡を信じて延命措置を続けている人については、適用から外すという選択肢もあっていいかもしれません(法技術的に不可能だったらすみません)。

 そのうえで、脳死者が臓器ドナーになることに同意した家族については、臓器移植を推進する国から、一時金の支給や、年金の大幅上乗せなど、ある程度の「お礼」があっていいと思います。1度の臓器移植で、複数の自国民を延命できるのですから。

 これをもし「臓器移植のインセンティブ」だと考えれば、ちょっと合理主義が過ぎる感はありますが、それは見方や呼び方の問題にすぎず、あくまで「ドナーとなることに同意したお礼」だと位置づけることが肝要でしょう。

 もし「日本人の死生観」という特殊なものがあるとして、それに基づき、脳死者を含む死者を、穏やかに丁重にとむらうためには、ある種、逆説的な意見かもしれませんが、人工臓器(被移植者自身のIPS細胞で作成した臓器も含む)の開発を推進して、安心して実用できるレベルにまで持って行く必要があると考えます。

 景気対策という免罪符をもとに、よくわからないハコ物に国家予算をつぎ込むより、人工臓器研究に今まで以上の費用を投じる一方、臓器移植法には「人工臓器が実用水準に至るまでの経過的措置である」ことを明記すべきだと考えます。

 傷病により機能を失った臓器に代わるものは、生体にそっくりの機能を果たす人工臓器であるべし。

 他者から移植された臓器を使わせていただくのは、あくまで、その技術が確立されるまでの間に許される、次善の策ではないだろうか、というのが、私の現時点での立場です。

 (以上、メールマガジン「ウィークリーながみね」の、冒頭からの転載です)

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