お金の半分は、優しさでできている
>>> さい銭1万円盗んだ小学生? 10年後、3万円入り手紙で謝罪
「約10年前にさい銭箱から1万円盗んで申し訳ありません」-。宇都宮市下岡本町の山神社のさい銭箱から、過去の盗みを謝罪する手紙と3万円入り封筒が見つかった。
(中略)「山神社御中」で書き始められた便せんには、「社会人になってからお金を稼ぐ大変さを実感した時に、おさい銭を盗んだことを思い出しました」と経緯を説明。「神様のお金を盗むことは言語道断であります」とつづられている。
さらに「1万円を入れた方はどんな願いをこめて入れたのだろうと思うのです」と参拝者の気持ちを推し量った上で、「盗んだ1万円を含む、10年間の歳月が流れてしまったことをふまえて、合計3万円を納めさせていただきます」と書かれている。
山神社は自治会が管理している。神社責任役員の須永さんは「今の若い人はいろいろ言われるけど、真っすぐな心を忘れないでよかった」。岡本さんも「誤字脱字がない文章。読んで涙が出た」と話した。 (下野新聞 2010年3月1日 05:00)
小さいころに親から「100円稼ぐのが、どれだけ大変か」と、口を酸っぱくして言われたものですが、たしかに子どものころには「大変さ」を実感しにくいものです。
特にウチは、「手伝いをしたからお駄賃」というシステムが無かったので(家の手伝いをするのは、対価を得てやるものでなく、当たり前だとされていた)、なおさらかも。
ただ単に1万円を返すだけでなく、「賽銭として1万円を投げる人の覚悟」にまで思いを馳せているところ、そして3倍返しをしているところにも、彼(彼女)の真摯さが感じられます。
1万円を盗んでしまったことを久々にハッと思い出したとき、彼(彼女)の背筋を冷たい電撃が走ったことでしょう。
たとえば、スリや万引きは、他人の目を盗んでモノを盗む、犯行そのもののスリルが快感だとされていますので、お金に余裕があってもやってしまう人は少なくありません。
それに比べて賽銭泥棒っては、野ざらしで現金が入っている箱を狙うわけですから、犯行そのものの難易度は低いでしょうね。
最大のハードルは、浄財をくすねる「天罰」「良心の呵責」というわけで。
真に切羽詰まった状況か、良心が痛まない鈍感な者によって敢行されるのかなと。
今回の若者(たぶん)は、幼すぎて「手に届くところに1万円札が転がっている」という物理的な面しか見えなかったのでしょうが、幸い、成長して「1万円札の奥に込められた、人々の願いや営み」を感じ取ることができたようです。
裁判傍聴をしていると、たびたび賽銭泥棒が窃盗などの罪に問われ、裁きを受けている場面に出くわします。
その大半は、(刑務所を出たばかりで、身寄りがなくて、仕事を辞めさせられ)『お金が無かった』という動機で犯行に及んでいます。
たしかに、賽銭泥棒にも同情すべき余地のみられる事例はあるのでしょうが……
お金というものは、単なる経済的な交換価値だけでなく、「ありがとう」という人々の気持ちが乗っかっている。
そのことに、どれだけ早めに気づけるか。
誰かから「ありがとう」と言ってもらえるほどの、優しくも激しい努力をしなければ、お金は手に入らないのだと。
当たり前だけど、意外と忘れがちな事実。
それに気づかない間は、『お金が無いなら、形だけ繕えればいい』として、他人のお金を盗んだり、デイトレードみたいな数字の操作でお茶を濁そうとする発想が生じてしまうのも仕方ないかもしれません。
勤め人なら「雇い主の目を盗んで、どれだけうまく仕事をサボるか」も、重要なスキルになるでしょうね。
効率よく雇い主に「ありがとう」と言えるだけの努力をし、濃密な時間の使い方をしていれば、余った時間を明日の英気を養う休憩に使ったとしても、神様のバチは当たらないでしょう。
そう考えれば、仕事をサボるのは高等テクニックだとわかります。
最後は全然違う話になっちゃいましたけど。
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