どうして今日になって、検察審査会が批判を浴びているのか
ホントは、もっと肩の力が抜けた楽しいネタを採り上げたいのですが、法律系の時事が続いていますので、思うところを書かせていただきます。
>>> 「とどめ刺されたのに近い」漫画家の倉田真由美さん
東京第5検察審査会の議決公表により、民主党の小沢一郎元幹事長(68)は資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる事件で嫌疑不十分で不起訴処分となった平成16、17年分の虚偽記載容疑について、「起訴すべき」(起訴議決)と判断された。小沢氏は、「裁判の場で無罪を明らかに」とコメントを発表したが、これに対し漫画家の倉田真由美さんは、「裁判で無罪になったとしても『一度、被告になった』というイメージはぬぐえない。小沢一郎氏は今回、とどめを刺されたのに近い」と話した。
(MSN産経 2010/10/05)※このほか、元最高裁判事の濱田邦夫弁護士と、日本大学の岩井奉信教授のコメントあり
くらたまさんのおっしゃる話もわかるのですが、今回の強制起訴によって、小沢さんの政治生命にとどめが刺されるようなことは、決してあってはなりません。
起訴は起訴です。 それ以上でも以下でもありません。 裁判手続きに乗せる「スタート」を宣言しているだけなのです。
今後、裁判所が有罪判決を言い渡し、それが確定することのない限り、小沢被告人は無罪と推定するルールです。 無罪の推定です。 同じことを私は過去に何度書いたかわかりませんし、別に面白い話でも何でもありませんが、飽きずに何度でも書かせてもらいます。
もともと小沢さんは、裏で手を引く「政界の陰のドン」などと呼ばれていて、様々な後ろ暗いイメージがあります。 そこに「強制起訴」「被告人」という言葉の響きが加われば、事実上さらなるダーティーさを上塗りするかもしれません。
それでも、このたび強制起訴されたことを引き金に、小沢さんの政治生命に終止符が打たれちゃいけないのです。
私たち有権者は、まだ小沢さんを「政治資金規正法違反の罪」と結びつける色メガネで見ちゃいけません。 まだ早すぎます。
将来、まぁ有罪が確定すれば別ですけど、もし裁判所が小沢さんに無罪判決を言い渡し、それが確定したならば、私たち有権者は、この陸山会の件を頭から差し引いたうえで、今後の投票行動に及ばなければなりません。 仮に差し引いて、それでも「政治家としてふさわしくない」かどうかです。
でなければ、「何が法治国家だ」って話です。 言い渡した判決に社会的影響力のない裁判所など、維持するだけ税金のムダですから、廃止されてしかるべきだということになります。
「推定無罪」という概念は、抽象的に語られるだけでは、ただひたすら説教くさくて耳にタコができるだけですから、今回の件が、実践のいいキッカケになろうかと思います。
たとえ密室政治が大好きでも、都合の悪い問題にダンマリを決めこんでも、たとえ面構えがチョウチンアンコウみたいでも、小沢さんは、まだ罪人ではありません。
検察審査会の2度の「起訴相当」議決⇒強制起訴が、ここにきて新聞やテレビなど各方面のメディアから批判されていますが、どうして批判されているのでしょうか。
検察審査会の方々は、与えられた務めを粛々と果たしたにすぎないだろうと思います。
むしろ問題は、小沢さんが「公判」へ向けての手続きに乗せられた、との報道が、非常に強烈なインパクトをもって広まって、とても重く受け止めている方が少なくない点でしょう。
◆ 検察審査会法 第1条(目的)
公訴権の実行に関し民意を反映させてその適正を図るため、政令で定める地方裁判所及び地方裁判所支部の所在地に検察審査会を置く。(以下略)
検察審査会は、国民の中から抽籤で決められた、11人の一般メンバーのみで構成されています。 サポート役で弁護士も同席してますけど、審査会の構成員ではありません。
つまり、裁判官も一緒に議論をする裁判員裁判とは異なり、一般国民だけで議論して決するわけですから、より陪審制に近い形態だといえます。
「特捜部は検討が不十分だったんじゃないか」「弁解は不合理なんじゃないか」という指摘が、政治家・小沢一郎の元来のイメージもあいまって、さらに何人かいたかもしれない(いなかったかもしれない)「小沢さんは不起訴でOK」派もここは空気を読んで意見を変えて、このたび2度目の起訴相当議決となったわけです。
「民意の反映」という、検察審査会の目的に沿っているじゃありませんか。
もっと言うなら、検察審査会の「(小沢さんの言い分は)著しく不合理であり到底信用することができない」などという議決理由が、根拠薄弱だと批判されているようですが、似たような言い回しは、プロ裁判官の判決理由でもみられますよね。
もっとも、裁判官の場合は、「被告人の供述は著しく不合理で信用できない」と言う前に「供述に再三の変遷がみられる(言うことがコロコロ変わる)」などの根拠(注意則)を付け加える場合があります。 とはいえ、より一歩踏み込んで、いかに供述が変遷しているのか、具体性をもって述べる方はほとんどいらっしゃいません。 検察審査会の議決書と大差ないと言われても仕方ないでしょう。
ただし、今回の2度目の起訴相当議決には、問題点もあるようです。 告発状や1度目の議決書では触れられていない被疑事実まで扱っていて、このやり方は検察審査会に与えられた権限から逸脱しているのではないか、という批判もあります。 私もそうした批判には合理的な理由があると思いますし、また、こんな話も出てきていますね。
さらに、「絶対権力者である被疑者」「これこそが善良な市民の感覚である」など、議決書の言葉づかいとしては独善的な箇所も垣間見えます。
これらの点は、検察審査会の制度上の改善や見直しの可能性を含めたうえで、厳しく検証されなければなりません。
が、このたび起訴されたことは確かです。
私は裁判員制度に懐疑的な立場ですが、それは庶民感覚そのものを疑っているというより、庶民感覚を活かすと謳いながら、そうした庶民感覚の反映が法システムをもって担保されていないこと(裁判員の庶民感覚を活かすも殺すも、それぞれの担当裁判官の心がけ次第になっている現状)、そうした芯の通ってない制度設計に対する懐疑が大きいのです。
そして、わざわざ忙しい国民を呼び付けずとも、庶民感覚は裁判官それぞれの学習能力、あるいは庶民との実際の交流などによって身につけていただきたいと申し上げています。
「疑わしきは罰せず」という法原理まで持ち出して批判している記事も見受けられますが、的外れでしょう。 検察審査会は小沢さんを罰したわけではありません。 ただ、起訴しただけです。
いや、「起訴しただけ」という言い回しは語弊があるかもしれませんね。 ある人を起訴して裁判に持ちこむことは、精神的にも時間的にも、あるいは社会的な意味でも、相当な負担を強いることになりますから。
それでも、起訴は起訴です。 「これから裁判を始めるために動き出す」、それ以上でも以下でもありません。
日本の刑事司法の現状「有罪率99.9%」とは、どういうことでしょうか。
要するに、裁判官が法廷でやるべき仕事を、代わりに、検察官が法廷の外でやってしまっている、ということに他なりません。
検察官が起訴すれば、99.9%有罪。 しかし、起訴しないと決めれば放免される。
こうした現状は、実質的に検察官が、有罪の被疑者と無罪の被疑者とを振り分けちゃっているようなものといえます。
「無罪が出たら沽券に関わる」という検察官の意識が、いつの間にか、まるで「裁判官の代わりに有罪の被告人だけを抽出する」がごとき実情を生み出してしまったのでしょう。
起訴されたけれども、「被告人は無罪」。 仮にそうなったとしても、問題ありません。
もし起訴された者は、ことごとく有罪判決へ導かねばならないのなら、裁判という手続きは巨大なムダです。 真っ先に事業仕分けの対象とされてしかるべきですね。
検察官と裁判官とで、捉え方が異なるケースがあって至極当然なのです。 本当に司法権が独立しているのなら。
有罪証拠が不十分だから起訴しないということがあってもいいし、有罪証拠が不十分だから無罪だと認定してもいいじゃないですか。
問題は、判断の種別が“前者”に著しく偏っている現状にあります。
そして、今回のような検察審査会の「強制起訴」は、検察官と裁判官の役割を、あらためて分断する、いいきっかけにできるのではないかと思います。 法律家の皆さんが、その気になれば、という前提つきですけど。
世間で「悪いことをしたら警察に捕まるよ!」と、親が子供に注意することはありますが、「裁判官に怒られて、有罪判決がくだるよ!」なんてややこしい注意は、まずしないでしょう。
「牢屋に入れられるよ!」と言う親もいますが、牢屋は刑務所だけではありません。 警察でも牢屋(留置場)には入れてくれるし、留置場生活だけで懲りて反省する被告人も多いです。
やはり、警察に捕まって、世間から犯罪者として見られること、留置場で身柄を拘束されること、小沢さんの場合は特捜部に目を付けられることこそが、現実には相当痛いペナルティになっているのです。
裁判の前にペナルティが科されているのですから、つくづく、裁判所の存在感が薄っぺらい世の中だなと思います。
「司法手続きを身近で分かりやすく」するために、裁判員制度を導入しておきながら、この期におよんでもなお、です。
身柄を拘束された被告人に、たとえ有罪判決が出されても、執行猶予つきなら「釈放された!」と捉えられるのが一般的でしょうしね。
司法の存在感の薄さは、「起訴されたら99.9%有罪」「行政訴訟でも国が9割方勝訴」「選挙での一票の価値の格差を追認し続ける」など、ひたすら政治部門の3歩後ろに下がって「事なかれ主義」をOKとしてきた裁判所自身にも責任があるかもしれません。
そして、法律ライターを名乗りながら、この世の中で、司法権の存在感をボトムアップさせるような企画をなかなか通せずに悶々としている私自身も、不徳の致すところです。
率直に言って歯がゆさがありますが、まだまだ私の精進が足りないだけです。 もっともっと頑張ります。
| 固定リンク
「裁判ニュースつまみぐい」カテゴリの記事
- どうして今日になって、検察審査会が批判を浴びているのか(2010.10.05)
- 板倉教授のコメントの意味がわからない(2010.09.10)
- 鉄道ファンの現役最高裁判事・涌井紀夫さんのご冥福をお祈りします(2009.12.20)
- 「被害者と共に泣く検察」を実践?(2009.11.06)
- 刑事裁判の量刑は、やっぱり検察官が決めちゃうのか?(2009.06.17)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
「推定無罪」今、小沢一郎問題を論じるときこの用語を使うほど世の反感を買いアンチ小沢が増えてしまうような気がしてなりません。
国会議員に関しては、「疑わしきは罰せよ」「出処進退は本人自らが決めるのではなく世論が決める」
「推定有罪」こんな過激な発想をするのは私ひとりではないと思っています。
投稿: きたひろさとう | 2010年10月 6日 (水) 22:25
コメントありがとうございます。
アンチ小沢は増えても減っても構わないのですが、推定有罪ということは「アンチ司法」を意味しますしね。
しかも、アンチというほど積極的でなく、むしろ無意識のうちに裁判所の機能を否定しているわけですから、仕事柄黙っているわけにはいきません。
推定有罪を前提に事実認定して裁く、政治家専門の裁判所が存在しない以上、小沢さんも他の被告人と区別なく、現時点では無罪として見るしかありません。
こんなスーパー正論を書いても面白くも何ともないので、世間ではウケないでしょうけど、ウケは別のところで狙うつもりです。
投稿: みそしる | 2010年10月 7日 (木) 00:56
>ただし、今回の2度目の起訴相当議決には、問題点もあるようです。告発状や1度目の議決書では触れられていない被疑事実まで扱っていて、このやり方は検察審査会に与えられた権限から逸脱しているのではないか、という批判もあります。私もそうした批判には合理的な理由があると思います
「触れられていない被疑事実」というのは土地購入の原資として指摘される「借入金隠し」と思われますが、
1度目の起訴相当議決でもについては「検察審査会の判断」の中で「動機は借入金隠しであり悪質」となってますね。
勿論、法理論上は起訴事実ではないので、「1度目の議決書では触れられていない被疑事実」を強制起訴対象には強制起訴しても法の不備として公訴棄却になるが、「2度議決した被疑事実」のみ強制起訴とすることはできると思うので、
強制起訴を全て無効とする論調には首をかしげたくはなります。
それと検察審査会の強制起訴制度では、告発した時点では分からなかったことが告発後の捜査の過程で出てくることがあるのではないでしょうか?
その際に告発後の被疑事実を強制起訴対象にできず告発時の被疑事実のみ強制起訴対象となるというのは、法律的にはそうかもしれませんが、告発者側としては納得できない点はあるのではないでしょうか。特に小沢事件の場合は告発者はアンチ小沢だろうから、起訴相当での起訴事実の中身が1回か2回とかいう法律技術は意識していないだろうし、犯罪嫌疑を一つでも二つでも多くして法廷で小沢一郎を晒し者にしたいと思うでしょうね。
投稿: xxx | 2010年10月 7日 (木) 21:46
コメントありがとうございます。
おっしゃるとおり、検察審査会の議決の中に一部瑕疵があったからといって、全部無効にする必要はないかもしれませんね(まだ即断はできませんが)。
もちろん、小沢さんの弁護士が「全部無効だ」と主張するのは、代理人の務めとしてやって当然だと思いますけど。
投稿: みそしる | 2010年10月 8日 (金) 10:28