司法試験人気に陰りが出ているのを残念に思う私は、「弁護士法廷弁論集」の出版を企画しています。
法曹界の歴史に残るほど、爽快で惚れるほどかっこよすぎる弁論の事例本。明治時代まで遡ってもいいですが、できれば国内限定で。何かとっておきのネタをご存知の方、お力を貸していただきたく願います!
ところで、中坊公平さん。90年代の豊島事件では抜群の手腕で解決へと導く一方、近年では整理回収機構などの社長として、情け容赦ない取り立てを指揮した行き過ぎが指摘されるなど、とにかく世間からの毀誉褒貶の激しい弁護士でした。
とはいえ、中坊さんが若手の頃に携わった『森永ヒ素ミルク中毒事件』の弁論(冒頭陳述?)に関しては、類まれなる熱意や人情をおぼえざるを得ません。
弁護士の弁論なんだから、首尾一貫した論理性があることは当然の前提として、歴史を動かすような場に立ち会う弁護士の語りの説得力は、理論の外でこそ支えられるものだと感じます。
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■ 母親達の自責の念
昭和30年当時、被害者は原因不明の発熱、下痢を繰り返し、次第に身体がどす黒くなっていき、お腹だけがぽんぽんに腫れ上がってきた。
そして夜となく昼となく泣き続けた。
そういう場合、母親としては、なんとかその子を生かせたい助けたい一心で、そのミルクを飲ませ続けたのです。
そのミルクの中に毒物が混入されていようとは、つゆ考えていなかった。
生後八ヶ月にもなると赤ちゃんは、すでにその意思で舌を巻いたり手で払いのけたりして、この毒入りのミルクを避けようとしたそうだ。
しかし、母親はそれをなんとかあやして無理にミルクを飲ませ続けたのです。その結果、ますますヒ素中毒がひどくなり、現在の悲惨な状況が続いてきたのだ。
この18年間、被害者が毎日苦しむ有様を見た母親が自責の念にかられたのは当然だ。
母親達は言った。私たちの人生は、この子どもに毒入りミルクを飲ませた時にもう終わった。それから後は暗黒の世界に入ったみたいなもの。私たちは終生この負い目の十字架を背負って生き続けなければならない。
乳幼児に対する残虐行為は弁解の許されない行為のはずだ。またこれほど社会的に非難を受ける行為もない。
いわんや、その乳幼児の唯一の生命の糧であるミルクに毒物を混入させた本件事案においてその責任を曖昧にすることは、人類が自ら自己を抹殺することにもつながると私は考える。
第一番目にこのことを深く再認識すべきと信じる。
第二番目に私たちは、消費者として、被告森永、並びに被告国の責任を考えなければならない。
そもそも、このミルクに添加されたという第二燐酸ソーダにしても、新しい牛乳であればそれを使う必要はなかった。現に森永は、今は使っていない。
その森永が過日、徳島地方裁判所の刑事事件において、森永の弁護人は『私たちに過失はない。私たちは第二燐酸ソーダを協和産業に発注しただけだ。協和産業が間違えて日本軽金属から排出された産業廃棄物を納入した。森永というような専門の業者の間においては、違うものが入るようなことを考える必要がなかった』と。
ここに被告森永の、製品の安全性に対する基本的な誤りを私は見いだした。
そして己の責任を納入業者協和産業、あるいはそのもう一つ手前の松野製薬などになすりつけ、あるいは滑稽にも国になすりつけている。
しかし、同じ日本軽金属から出た産業廃棄物で南西化学を経て、国鉄仙台鉄道管理局に納入されたものがある。その際国鉄は、これを製罐用としても、使う際にその品質を検査し、ヒ素を発見して返品している。
同じ物質を森永は何の検査もなく、こともあろうに乳製品のしかも乳幼児が飲む調整粉乳の中にこれを混入させたのだ。被告森永の責任は極めて明らかであると言わねばならない。
ここに私が持っている森永ドライミルク、これはまさに昭和30年当時、あなたたちの徳島工場で作られた問題のMF缶だ。
そして『森永ドライミルクは、医師の指示に従って乳幼児用として作られた最も理想的な高級粉乳です。本品は純良牛乳、砂糖及び乳児に消化吸収しやすい滋養素を加え、その他乳児の発育に必要な各種ビタミン塩類を添加して衛生的に乾燥粉末にしたものです』と印刷させている。
どこが本当に理想的な粉末乳であり、あるいは衛生的に検査されたものだろうか。
■ 消費者と企業、国家の関係
そしてあなたたちは、母子手帳にカバーをつけ、そのカバーに『森永ドライミルク』という文字をつけさせていた。地方公共団体とも密着して宣伝したわけだ。
被害者は、買うときから、また子どもを産むときから母子手帳に『森永ドライミルク』という表示をつけてもらっていたのだ。己の責任は曖昧に考えながら、宣伝のときにはかくも徹底的な宣伝をしたのだ。
国家というものは国民の健康を維持し、その生命を保持しなければならないという義務がある。
しかるに、日本軽金属から出た産業廃棄物に対する回答を一年近くも遅らせたり、あるいは、食品衛生法の添加物の規制を自ら緩めたりしたこと、これはひとり行政上の怠慢だけではなしに、企業の利益のために一般消費者を犠牲にしたと言っても過言ではないと思う。
このように、本件事案はまさに消費者と、企業あるいは国家という関係を裁く裁判だ。私はこの点を強調したいと思う。
■ 公害被害者は二度殺される
第三番目に、この事件を公害事件として見たときに、この事件はもちろん数多くの乳幼児を死なせたという、食品公害における世界史上類を見ない大惨事であることは言うまでもない。
しかし、私はこの観点においては特に強調したいのは、被害者の圧殺ということなのだ。
これまでの森永あるいは国の責任は、これは過失で誤って行政上の怠慢であったと言われるかもしれない。
しかし、被害者の圧殺ということに関しては、それはまさに過失ではなくして故意なのだ。しかもこの点までくると、被告森永と国とは完全に共謀して、このことを実行したのだ。
昭和30年11月2日、あるいは昭和31年の3月26日の通牒によって治癒基準を作り、そして形式的な一斉検診を行って、これらの被害者を、もう後遺症がないと言って打ち切ったわけだ。
その結果、大多数の被害者は、お医者さんから『もう大丈夫だよ』と言われることを聞いて喜んで帰った。
何も医学上のことは分からない被害者は、それで喜んで帰ったのだ。
また一部の人達は、その当時、なお症状が続いている人も何人あった。その人達は、ある場合には入院している病院から強制退院までさせられた。
そして、一斉検診後、なお症状の続いている人が森永に行くと、森永さんは何と言われたか。
『あなたたちだけの治療費は払いましょう。よその人には言わんといてください。これは表沙汰にしないでください』。
この原告の中にもそういう人が何人ある。このようにして、表面上は何も後遺症はないと言って打ち切ったのだ。
しかし真実は、その後後遺症は依然として継続していたのだ。その結果、多くの被害者たちは、行政機関からも医者からも見放された。
その後子ども達の親は子どもが悪くなる、あるいは目が見えなくなる、あるいは耳が聞こえなくなる、あるいはてんかんの発作が続く、原因不明の吹き出物が出てくる、こういったたびに、それぞれ医者へかけつけた。しかし、どの治療も効果がなかった。
そういう時に、母親たちは『ひょっとしたら乳幼児の時にヒ素中毒にかかっている。お医者さん、おれと関係あるのではないだろうか』という言葉を言うと、お医者さんはたちまち態度を急変させて『ヒ素中毒の関係の診断書は、当院ではかけない』と言って断った。
親たちは言った、『私は診断書を書いて欲しいわけではない。この子どもの病状がヒ素に関係あるかどうかわからないけれども、あるんならなんとか治療する方法を考えて欲しいのだ』と頼んだが、お医者さん達は全て、にべもなく申し出を断った。
そして世間からは、あの人達は自分の子どもが先天的な病気なのに、それを森永のせいにしているといって冷たい目で見られてきた。
『14年目の訪問』によって、ようやくそれが回復されたと、考えられるかもしれない。しかし、実態はそれ以後もお医者さんに言っても、あれは一養護教諭の言っていることなのだとして、相手にもされなかった。
現在被害者達は、医者並びに人間に対する限りのない不信感を持っている。
このような悲惨な状況に追い込まれてきたのも、被害者圧殺のせいなのだ。
私は、公害事件において、公害の被害者は二度殺されるという警句を思い出す。
一回は事故によって、一回は第三者機関などによって殺されると言う。私は、森永事件において、この典型的な原型を、ここに見いだすものである。
この事件後に発生したチッソ、あるいは新潟の水俣病において、これと同じようなことが行われている。この二つの事件においては、裁判によってその二度目の壁は打ち破られた。
私はこの裁判において、この原型について終止符を打たれ、『公害の被害者は、二度殺される』というような警句が、少なくとも日本語ではそういう言葉がなくなることを期待して、この裁判を進めていきたいと考えている。
と同時に、被告森永に対して申し上げたい。
あなたたちは、この事故が起きた当時、森永の資本金は4億5000万円、それが現在は資本金60億円の巨大な企業となって、私たちの前に大手を広げて構えている。
しかし、あなたたちがかように大きな企業になった陰には、その被害者達の圧殺があるということも忘れてはならないと思う。
と同時に、あなたたちがいかに被害者を抹殺しようとしても、この被害者が叫んでいる声は消せない。あなたたちの手によっては、永久に抹殺できないものであることを私は強調したいと思う。
あなたたちが本当に被害者を救済してあげるまで、この声は叫び続けるのである。
■ 懸命に生きた被害児たち
私は第四番目に、その結果現在の被害者がどのような悲惨な状況下にあるか、ということについて、二、三申し述べる。これはすべて原告に関することである。
原告のうち、すでにご存じのように小西健雄君と藤井常明君は死亡している。昭和46年と昭和44年にそれぞれ死亡した。
どのような死に方をしたか。
彼らは二人ともてんかんの発作を繰り返し、病院への入院を繰り返しながら、枯木のようにやせ細って、死ぬ前の約1週間というものは40度に近い高熱にうなされ、全身脂汗をいっぱいかいて、ある場合には、額に原因不明の吹き出物をいっぱいできさせて、そして長い間、終生離すことができなかったおむつに、糞を出す力もなく糞の中にまみれて死んでいったのだ。
のみならず彼らが生存しておるとき、それ以外にも原告の中には、何人かの精神薄弱児がおられる。
この人達は、心ない世間の人達から阿保と呼ばれている。そして外へ遊びに行くと、がんせない子ども達は、逆にこの子どもをいじめるのだ。
阿保と言って罵られたり、あるいは殴られたり、蹴られたり、ひどい時には頭から砂をぶっかけられたり、水をかけられたりして、家へ帰ってくることも少なくなかったと聞く。
そんな時、この子ども達は、決して泣かなかった。泣かないのは、わからないのだろうとお考えになると思う。しかし、この子ども達は、家に帰ってきて、母の手にすがった時には泣け叫んだのである。
この子ども達は本当は非常に悲しかったのだ。悲しくて抵抗しようにも、一本の健康な手も足もなかったのである。
原告の中にK君という少年がいる。
彼も同じように、かなりひどい発作を繰り返している。彼は、自分のその発作が起きて、そして粗暴な振る舞いをしだすことが事前にわかるのだそうである。そうすると、屋外に出て屋根に向かって、石をなげつける。それでも、どうにもおさまらない彼は、家の中に入ってきて、弟や妹の勉強している机を荒らす。
小さい時には、お父さんはそれを押しとどめた。なんとかして止めた。しかし、それが大きくなってきてお父さんの力では止められなくなってきた。お父さんはついにK君がいかに可愛くても、かの子どもを全部犠牲にすることはできないということで、この子を強制的に精神病院へ入れようと決心した。しかし、その話をする前にK君の方から、自ら『私が精神病院へ行きます』と言った。
K君は現在も精神病院に入っており、そこから『お父さん、高等学校へ通います』と言って、精神病院から高等学校へ通学しているのである。時たま帰ってきても日暮れになる前には病院へ帰るという。家にこれ以上いては、家に長くいたくなる。なんとかして逆に早く帰って行くのだそうだ。
日暮れになる前に帰って行く、精神病院に帰って行くのを見送られる子ども、並びに見送る母親の気持ちは、一体どんな気持ちだろうか。
滋賀県の原告のある子は、ここ数年前から右眼が失明した。
十分働くにも働けないのだ。それでも中学校を卒業後、二、三の転職を重ねて、現在あるスーパーに勤めるようになった。
私が訪問した日、彼女はたまたま出勤していたが、本来なら休暇の日であった。
しかしお父さんは言った。『本人は今このスーパーの勤めているところですでに森永の子だというのがわかりました。そして目がみえないなら辞めてくれと暗に言われておるんです。ここで首を切られたらもう働きに行くところがない。生きて行く自信がないのです。なんとかして首をきらないで下さい。自分は片方が見えなくても一般の人達と同じように働けますと言って、彼女は休みの日にも働きに行く』のだそうだ。
被害者はそれなりに一生懸命なんとかして、この世の中で生き続けて生きたいと働いている。
しかし、その子ども達の前に控えているものは、それはいつ、何時どういうことが起こるかもしれないということだ。この病気はそこにまた特徴がある。
多くの被害者は、あるいは突然修学旅行へ行く前の日に、便所の中で、てんかんの発作を起こし、それ以来頻繁にてんかんの発作が起きる。バスの停留所からバス会社の人の電話がかかってくる。お母さんは、いつも電話を聞く度に、またどこかで倒れたのかと心配しなければならない。あるいは、ここ数年前から突然お腹のあたりに幾百幾千という赤黒いアザがいっぱいできてくる子もいる。
このように、突然どんなことが起きるかもしれないという不安の中に、これらの被害者は暮らしているのだ。しかもその発病形態が極めて多様であり、ある子は指に何の指紋もできないほど、皮がむける。あるいはすぐ吐いて、洗面器に一杯くらい吐かなければ止まらないほど吐く、こんないろいろな症状を呈してくる子どももある。
私がある家に訪れた時、娘さんと母親と二人おって、二人とも目をいっぱい腫らして泣いていた跡が私にははっきりした。
お母さんが言った。『この娘は受験勉強をしたいと言うんだけれど、勉強しようにもどうしても身体がいうことをきかない。癇癪を起こして今朝から畳をかきむしって泣く』。
母親はこれに対しなんのすべもなく、共に肩を抱いて泣く以外に方法はないのである。母親は訴えている。
この子たちは、今まさに問題の18歳前後になろうとしている。この人達の青春はもちろんなかった。しかしこれからがまさに問題の年なのだ。
また異口同音にこの親達が言うことは、自分たちはいずれ死ぬ、残った子の面倒を誰が見てくれるかということだ。
この事件において被害者の救済が真に望まれるゆえんはまさに、この点にあるのだ。
■ 青春を取り戻したい
第五番目に、私はこの事件の審理に入るまでの経過について若干申し述べたい。
守る会の人達は、今まで森永との間で長い間の自主交渉を続けて来た。
その間、森永の方は世論を欺くためだけに、昨年の8・16声明のように法的責任を認めるのだといったようなことまで言った。あるいは今度のこの裁判が始まる数日前にも、守る会の本部にそのような文書を出したと聞く。
しかし、話を詰めて聞けば、私たちは法的責任はないのだ、とこう言うわけだ。
責任を認めないところに本当の交渉あるいは補償などあり得ないことは、分かり切っていることだ。世間を欺くためにだけこのような形をとって、真実はなんの真心からなる救済も行わないで本日に至っている。
それのみか、この裁判が事件後18年を経てやっと起こされた。
起こすことについて森永はどのように妨害をしてきたか、私はたまたま自分の手許にこのような確認書を持っている。これは、森永の現地駐在員のある方が、守る会の堺支部との間で交わした確認書である。それにはなんと書いてあるか。
『因果関係については訴訟をしないことを前提とした方に対しては認める立場で救済にあたる』、
端的に言えば、裁判を起こすのなら救済はしてやらないということだ。こんな非人道的な言い分が一体どこにあるのか。裁判をやれば、治療費を払ってやらないと。
この原告の中に重症児の何人かが欠けている。その親たちは言った。
『先生、私達は卑怯でしょうか。しかし今、森永から受けているわずかな治療費でも切られるということはつらいのです』。
私達は『おじさん、無理することはない』、そう言った。何人か欠けているのもそれがためなのだ。原告36名はそういうようなことも踏み切って、この原告となって裁判を提起しているのだ。
これらの被害者は決して金銭の補償を主たる目的にしているのではない。本当の願いは、言い古された言葉だが、やはり身体を元の健康な身体に返してほしい、失った青春を取り戻したいということなのだ。
そして、それが少しでも実現できるようにといって具体的救済案なるものを提案している。まさに、この裁判はこのような意味を持っているわけだ。
私はこの審理を始めるに際し、最後に裁判長に一言お願いする。
どうか一日も早い迅速な、しかも公正な審理と公正な裁判をお願いする。同時に人間として、子を持つ親として暖かい審理をしてやっていただきたい。
同時に被告森永と国に申し上げる。今からでも遅くはない。日々あなたちが犯している罪を考えて己の責任を率直に認め、真に被害者の救済に当たられんことを切願して止まない。
以上を持って、私の意見の開陳を終わる。
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