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2012年6月27日 (水)

「特別傍聴券」って、知ってますか?

 いま、被告人が犯行を否認している下関女児殺害事件の裁判員裁判が山口地裁で行われています。判決が出るのが7月下旬で、38日間にも及ぶ審理期間を経る、かなりの長期裁判となります。

 初公判は、傍聴券が抽選となるほどの注目度を集めていたそうです。

 そこへ、ジャーナリストの片岡健さんが取材に行っているのですが、興味深い報告を得ました。

 その法廷の傍聴席に、6人の検察事務官がズラリと座っていたらしいのです。みんな名札をぶら下げていたらしいので、山口地検の者だということはわかったのですが……。

 いったい何の用なのでしょう。彼らが傍聴席を占拠したことで、6人の傍聴希望者が帰らされているはずなのです。


 一般傍聴席を減らす目的、裁判の公開原則に反する目的を疑われても仕方ないでしょう。裁判の進行上、何か知られると都合が悪いことでもあるのか。
 
 ここからが片岡さんのジャーナリスト魂の真骨頂なのですが、休廷中に、何の目的で座っているのか、6人の検察事務官に尋ねたらしいんですね。

 すると、「特別傍聴券」なる紙を見せて、「裁判所から認められてるんだ」「法廷の検事をサポートする目的で待機している」という答えが返ってきたそうなのです。

 普通の傍聴券とは別に、特別傍聴券なるものが存在することを、私は初めて知ったのですが、なんでも、本来は犯罪被害者等の事件関係者が、法廷を優先的に傍聴できるよう、裁判所が気をきかせて配布するものだとのことです。

 もちろん、事件関係者が優先的に審理を傍聴できることは知っていましたが、その身元は身分証などで確認すれば済む問題で、わざわざ「特別傍聴券」という無記名のチケットを配布する必要はないわけです。
 
 そんなことをするから、検察庁から検察事務官へ、まるでダフ屋のように傍聴券が流れるような真似を許してしまうのです。
 
 そもそも、法廷の事務官に検事をサポートする目的が仮にあったとしても、1人で十分でしょう。6人も必要ありますか? タンスか何か運ぶんですか?
 
 もしかすると、犯罪被害者等の事件関係者に配るために、山口地検が特別傍聴券を6枚確保したものの、何かの都合で6人全員来られなくなったのかもしれません。

 でも、途中で急きょ駆け付ける場合も考えられるから、事務官が傍聴席を温めておいてあげた…… のかい?
 
 公正な裁判が行われているかどうかを、主権者である国民が監視することが建前である裁判公開制度ですが、結果的に一般傍聴人の入廷が制限されているとしたら、これは問題ですよ。
 
 しかも、検察事務官6人だと思われていた傍聴席占拠組の1人が、山口地検の次席検事(ナンバー2)だったとのことです。
 
 地検にどういう事情があるのか知りませんが、少なくとも、事実を公表せずにコソコソやることではない。何が「公益の代表者」だ。

 片岡さんは、法廷の取材と並行して、検察庁への抗議も行っているとのこと。お疲れ様です。気を付けて取材を続けていただきたいです。

 
 
 個人的には、そういった注目裁判の模様は、くじ引きを外してしまった傍聴希望者に向けて、特別に裁判所のロビーにあるモニターに映し出してサテライト生中継すべきだと考えています。 そうすれば傍聴席の数を気にする必要がないので。

 
 
 

※追記※ 2012/07/02

この投稿に一部不正確な面がございました。

片岡さんによると、「特別傍聴券」と書いてあるのを横から確認して、傍聴席を6席も占拠している目的を質しましたところ、「裁判所の訴訟指揮にかかわることなので、回答できない」という答えしか返ってこなかったのだそうです。

片岡さんが公判中に彼らの様子を観察していて、「法廷の検事をサポート」する目的で待機しているような印象を受けたとのことですので、その目的を検察から説明されたわけではないそうです。

現在の片岡さんは、傍聴取材と並行し、この問題について報じようとしない記者クラブに対し、取材を申し込んでいる最中だそうです。

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2012年6月13日 (水)

日本の現代史を塗り替えた、シビれる「弁護士弁論」の備忘録(1) 『森永ヒ素ミルク中毒事件』1973年4月

 司法試験人気に陰りが出ているのを残念に思う私は、「弁護士法廷弁論集」の出版を企画しています。
 
 法曹界の歴史に残るほど、爽快で惚れるほどかっこよすぎる弁論の事例本。明治時代まで遡ってもいいですが、できれば国内限定で。何かとっておきのネタをご存知の方、お力を貸していただきたく願います!

 

 ところで、中坊公平さん。90年代の豊島事件では抜群の手腕で解決へと導く一方、近年では整理回収機構などの社長として、情け容赦ない取り立てを指揮した行き過ぎが指摘されるなど、とにかく世間からの毀誉褒貶の激しい弁護士でした。
 
 とはいえ、中坊さんが若手の頃に携わった『森永ヒ素ミルク中毒事件』の弁論(冒頭陳述?)に関しては、類まれなる熱意や人情をおぼえざるを得ません。

 弁護士の弁論なんだから、首尾一貫した論理性があることは当然の前提として、歴史を動かすような場に立ち会う弁護士の語りの説得力は、理論の外でこそ支えられるものだと感じます。

 

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■ 母親達の自責の念

 昭和30年当時、被害者は原因不明の発熱、下痢を繰り返し、次第に身体がどす黒くなっていき、お腹だけがぽんぽんに腫れ上がってきた。

 そして夜となく昼となく泣き続けた。
 
 そういう場合、母親としては、なんとかその子を生かせたい助けたい一心で、そのミルクを飲ませ続けたのです。
 
 そのミルクの中に毒物が混入されていようとは、つゆ考えていなかった。
 
 生後八ヶ月にもなると赤ちゃんは、すでにその意思で舌を巻いたり手で払いのけたりして、この毒入りのミルクを避けようとしたそうだ。
 
 しかし、母親はそれをなんとかあやして無理にミルクを飲ませ続けたのです。その結果、ますますヒ素中毒がひどくなり、現在の悲惨な状況が続いてきたのだ。

 この18年間、被害者が毎日苦しむ有様を見た母親が自責の念にかられたのは当然だ。

 母親達は言った。私たちの人生は、この子どもに毒入りミルクを飲ませた時にもう終わった。それから後は暗黒の世界に入ったみたいなもの。私たちは終生この負い目の十字架を背負って生き続けなければならない。

 乳幼児に対する残虐行為は弁解の許されない行為のはずだ。またこれほど社会的に非難を受ける行為もない。
 
 いわんや、その乳幼児の唯一の生命の糧であるミルクに毒物を混入させた本件事案においてその責任を曖昧にすることは、人類が自ら自己を抹殺することにもつながると私は考える。

 第一番目にこのことを深く再認識すべきと信じる。

 第二番目に私たちは、消費者として、被告森永、並びに被告国の責任を考えなければならない。
 
 そもそも、このミルクに添加されたという第二燐酸ソーダにしても、新しい牛乳であればそれを使う必要はなかった。現に森永は、今は使っていない。
 
 その森永が過日、徳島地方裁判所の刑事事件において、森永の弁護人は『私たちに過失はない。私たちは第二燐酸ソーダを協和産業に発注しただけだ。協和産業が間違えて日本軽金属から排出された産業廃棄物を納入した。森永というような専門の業者の間においては、違うものが入るようなことを考える必要がなかった』と。
 
 ここに被告森永の、製品の安全性に対する基本的な誤りを私は見いだした。
 
 そして己の責任を納入業者協和産業、あるいはそのもう一つ手前の松野製薬などになすりつけ、あるいは滑稽にも国になすりつけている。

 しかし、同じ日本軽金属から出た産業廃棄物で南西化学を経て、国鉄仙台鉄道管理局に納入されたものがある。その際国鉄は、これを製罐用としても、使う際にその品質を検査し、ヒ素を発見して返品している。
 
 同じ物質を森永は何の検査もなく、こともあろうに乳製品のしかも乳幼児が飲む調整粉乳の中にこれを混入させたのだ。被告森永の責任は極めて明らかであると言わねばならない。

 ここに私が持っている森永ドライミルク、これはまさに昭和30年当時、あなたたちの徳島工場で作られた問題のMF缶だ。
 
 そして『森永ドライミルクは、医師の指示に従って乳幼児用として作られた最も理想的な高級粉乳です。本品は純良牛乳、砂糖及び乳児に消化吸収しやすい滋養素を加え、その他乳児の発育に必要な各種ビタミン塩類を添加して衛生的に乾燥粉末にしたものです』と印刷させている。
 
 どこが本当に理想的な粉末乳であり、あるいは衛生的に検査されたものだろうか。

 

■ 消費者と企業、国家の関係

 そしてあなたたちは、母子手帳にカバーをつけ、そのカバーに『森永ドライミルク』という文字をつけさせていた。地方公共団体とも密着して宣伝したわけだ。
 
 被害者は、買うときから、また子どもを産むときから母子手帳に『森永ドライミルク』という表示をつけてもらっていたのだ。己の責任は曖昧に考えながら、宣伝のときにはかくも徹底的な宣伝をしたのだ。

 国家というものは国民の健康を維持し、その生命を保持しなければならないという義務がある。
 
 しかるに、日本軽金属から出た産業廃棄物に対する回答を一年近くも遅らせたり、あるいは、食品衛生法の添加物の規制を自ら緩めたりしたこと、これはひとり行政上の怠慢だけではなしに、企業の利益のために一般消費者を犠牲にしたと言っても過言ではないと思う。

 このように、本件事案はまさに消費者と、企業あるいは国家という関係を裁く裁判だ。私はこの点を強調したいと思う。

 

■ 公害被害者は二度殺される

 第三番目に、この事件を公害事件として見たときに、この事件はもちろん数多くの乳幼児を死なせたという、食品公害における世界史上類を見ない大惨事であることは言うまでもない。
 
 しかし、私はこの観点においては特に強調したいのは、被害者の圧殺ということなのだ。
 
 これまでの森永あるいは国の責任は、これは過失で誤って行政上の怠慢であったと言われるかもしれない。

 しかし、被害者の圧殺ということに関しては、それはまさに過失ではなくして故意なのだ。しかもこの点までくると、被告森永と国とは完全に共謀して、このことを実行したのだ。
 
 昭和30年11月2日、あるいは昭和31年の3月26日の通牒によって治癒基準を作り、そして形式的な一斉検診を行って、これらの被害者を、もう後遺症がないと言って打ち切ったわけだ。

 その結果、大多数の被害者は、お医者さんから『もう大丈夫だよ』と言われることを聞いて喜んで帰った。
 
 何も医学上のことは分からない被害者は、それで喜んで帰ったのだ。
 
 また一部の人達は、その当時、なお症状が続いている人も何人あった。その人達は、ある場合には入院している病院から強制退院までさせられた。
 
 そして、一斉検診後、なお症状の続いている人が森永に行くと、森永さんは何と言われたか。
 
 『あなたたちだけの治療費は払いましょう。よその人には言わんといてください。これは表沙汰にしないでください』。
 
 この原告の中にもそういう人が何人ある。このようにして、表面上は何も後遺症はないと言って打ち切ったのだ。
 
 しかし真実は、その後後遺症は依然として継続していたのだ。その結果、多くの被害者たちは、行政機関からも医者からも見放された。
 
 その後子ども達の親は子どもが悪くなる、あるいは目が見えなくなる、あるいは耳が聞こえなくなる、あるいはてんかんの発作が続く、原因不明の吹き出物が出てくる、こういったたびに、それぞれ医者へかけつけた。しかし、どの治療も効果がなかった。

 そういう時に、母親たちは『ひょっとしたら乳幼児の時にヒ素中毒にかかっている。お医者さん、おれと関係あるのではないだろうか』という言葉を言うと、お医者さんはたちまち態度を急変させて『ヒ素中毒の関係の診断書は、当院ではかけない』と言って断った。
 
 親たちは言った、『私は診断書を書いて欲しいわけではない。この子どもの病状がヒ素に関係あるかどうかわからないけれども、あるんならなんとか治療する方法を考えて欲しいのだ』と頼んだが、お医者さん達は全て、にべもなく申し出を断った。
 
 そして世間からは、あの人達は自分の子どもが先天的な病気なのに、それを森永のせいにしているといって冷たい目で見られてきた。
 
 『14年目の訪問』によって、ようやくそれが回復されたと、考えられるかもしれない。しかし、実態はそれ以後もお医者さんに言っても、あれは一養護教諭の言っていることなのだとして、相手にもされなかった。
 
 現在被害者達は、医者並びに人間に対する限りのない不信感を持っている。

 このような悲惨な状況に追い込まれてきたのも、被害者圧殺のせいなのだ。
 
 私は、公害事件において、公害の被害者は二度殺されるという警句を思い出す。
 
 一回は事故によって、一回は第三者機関などによって殺されると言う。私は、森永事件において、この典型的な原型を、ここに見いだすものである。
 
 この事件後に発生したチッソ、あるいは新潟の水俣病において、これと同じようなことが行われている。この二つの事件においては、裁判によってその二度目の壁は打ち破られた。
 
 私はこの裁判において、この原型について終止符を打たれ、『公害の被害者は、二度殺される』というような警句が、少なくとも日本語ではそういう言葉がなくなることを期待して、この裁判を進めていきたいと考えている。

 と同時に、被告森永に対して申し上げたい。

 あなたたちは、この事故が起きた当時、森永の資本金は4億5000万円、それが現在は資本金60億円の巨大な企業となって、私たちの前に大手を広げて構えている。
 
 しかし、あなたたちがかように大きな企業になった陰には、その被害者達の圧殺があるということも忘れてはならないと思う。
 
 と同時に、あなたたちがいかに被害者を抹殺しようとしても、この被害者が叫んでいる声は消せない。あなたたちの手によっては、永久に抹殺できないものであることを私は強調したいと思う。
 
 あなたたちが本当に被害者を救済してあげるまで、この声は叫び続けるのである。

 

■ 懸命に生きた被害児たち

 私は第四番目に、その結果現在の被害者がどのような悲惨な状況下にあるか、ということについて、二、三申し述べる。これはすべて原告に関することである。
 
 原告のうち、すでにご存じのように小西健雄君と藤井常明君は死亡している。昭和46年と昭和44年にそれぞれ死亡した。
 
 どのような死に方をしたか。

 彼らは二人ともてんかんの発作を繰り返し、病院への入院を繰り返しながら、枯木のようにやせ細って、死ぬ前の約1週間というものは40度に近い高熱にうなされ、全身脂汗をいっぱいかいて、ある場合には、額に原因不明の吹き出物をいっぱいできさせて、そして長い間、終生離すことができなかったおむつに、糞を出す力もなく糞の中にまみれて死んでいったのだ。
 
 のみならず彼らが生存しておるとき、それ以外にも原告の中には、何人かの精神薄弱児がおられる。

 この人達は、心ない世間の人達から阿保と呼ばれている。そして外へ遊びに行くと、がんせない子ども達は、逆にこの子どもをいじめるのだ。
 阿保と言って罵られたり、あるいは殴られたり、蹴られたり、ひどい時には頭から砂をぶっかけられたり、水をかけられたりして、家へ帰ってくることも少なくなかったと聞く。
 
 そんな時、この子ども達は、決して泣かなかった。泣かないのは、わからないのだろうとお考えになると思う。しかし、この子ども達は、家に帰ってきて、母の手にすがった時には泣け叫んだのである。
 
 この子ども達は本当は非常に悲しかったのだ。悲しくて抵抗しようにも、一本の健康な手も足もなかったのである。

 原告の中にK君という少年がいる。
 彼も同じように、かなりひどい発作を繰り返している。彼は、自分のその発作が起きて、そして粗暴な振る舞いをしだすことが事前にわかるのだそうである。そうすると、屋外に出て屋根に向かって、石をなげつける。それでも、どうにもおさまらない彼は、家の中に入ってきて、弟や妹の勉強している机を荒らす。
 
 小さい時には、お父さんはそれを押しとどめた。なんとかして止めた。しかし、それが大きくなってきてお父さんの力では止められなくなってきた。お父さんはついにK君がいかに可愛くても、かの子どもを全部犠牲にすることはできないということで、この子を強制的に精神病院へ入れようと決心した。しかし、その話をする前にK君の方から、自ら『私が精神病院へ行きます』と言った。

 K君は現在も精神病院に入っており、そこから『お父さん、高等学校へ通います』と言って、精神病院から高等学校へ通学しているのである。時たま帰ってきても日暮れになる前には病院へ帰るという。家にこれ以上いては、家に長くいたくなる。なんとかして逆に早く帰って行くのだそうだ。
 日暮れになる前に帰って行く、精神病院に帰って行くのを見送られる子ども、並びに見送る母親の気持ちは、一体どんな気持ちだろうか。

 滋賀県の原告のある子は、ここ数年前から右眼が失明した。
 十分働くにも働けないのだ。それでも中学校を卒業後、二、三の転職を重ねて、現在あるスーパーに勤めるようになった。
 
 私が訪問した日、彼女はたまたま出勤していたが、本来なら休暇の日であった。
 
 しかしお父さんは言った。『本人は今このスーパーの勤めているところですでに森永の子だというのがわかりました。そして目がみえないなら辞めてくれと暗に言われておるんです。ここで首を切られたらもう働きに行くところがない。生きて行く自信がないのです。なんとかして首をきらないで下さい。自分は片方が見えなくても一般の人達と同じように働けますと言って、彼女は休みの日にも働きに行く』のだそうだ。
 
 被害者はそれなりに一生懸命なんとかして、この世の中で生き続けて生きたいと働いている。

 しかし、その子ども達の前に控えているものは、それはいつ、何時どういうことが起こるかもしれないということだ。この病気はそこにまた特徴がある。
 
 多くの被害者は、あるいは突然修学旅行へ行く前の日に、便所の中で、てんかんの発作を起こし、それ以来頻繁にてんかんの発作が起きる。バスの停留所からバス会社の人の電話がかかってくる。お母さんは、いつも電話を聞く度に、またどこかで倒れたのかと心配しなければならない。あるいは、ここ数年前から突然お腹のあたりに幾百幾千という赤黒いアザがいっぱいできてくる子もいる。

 このように、突然どんなことが起きるかもしれないという不安の中に、これらの被害者は暮らしているのだ。しかもその発病形態が極めて多様であり、ある子は指に何の指紋もできないほど、皮がむける。あるいはすぐ吐いて、洗面器に一杯くらい吐かなければ止まらないほど吐く、こんないろいろな症状を呈してくる子どももある。

 私がある家に訪れた時、娘さんと母親と二人おって、二人とも目をいっぱい腫らして泣いていた跡が私にははっきりした。

 お母さんが言った。『この娘は受験勉強をしたいと言うんだけれど、勉強しようにもどうしても身体がいうことをきかない。癇癪を起こして今朝から畳をかきむしって泣く』。

 母親はこれに対しなんのすべもなく、共に肩を抱いて泣く以外に方法はないのである。母親は訴えている。

 この子たちは、今まさに問題の18歳前後になろうとしている。この人達の青春はもちろんなかった。しかしこれからがまさに問題の年なのだ。
 
 また異口同音にこの親達が言うことは、自分たちはいずれ死ぬ、残った子の面倒を誰が見てくれるかということだ。
 
 この事件において被害者の救済が真に望まれるゆえんはまさに、この点にあるのだ。

 

■ 青春を取り戻したい

 第五番目に、私はこの事件の審理に入るまでの経過について若干申し述べたい。

 守る会の人達は、今まで森永との間で長い間の自主交渉を続けて来た。
 
 その間、森永の方は世論を欺くためだけに、昨年の8・16声明のように法的責任を認めるのだといったようなことまで言った。あるいは今度のこの裁判が始まる数日前にも、守る会の本部にそのような文書を出したと聞く。
 
 しかし、話を詰めて聞けば、私たちは法的責任はないのだ、とこう言うわけだ。
 
 責任を認めないところに本当の交渉あるいは補償などあり得ないことは、分かり切っていることだ。世間を欺くためにだけこのような形をとって、真実はなんの真心からなる救済も行わないで本日に至っている。
 
 それのみか、この裁判が事件後18年を経てやっと起こされた。
 
 起こすことについて森永はどのように妨害をしてきたか、私はたまたま自分の手許にこのような確認書を持っている。これは、森永の現地駐在員のある方が、守る会の堺支部との間で交わした確認書である。それにはなんと書いてあるか。
 
 『因果関係については訴訟をしないことを前提とした方に対しては認める立場で救済にあたる』、
 
 端的に言えば、裁判を起こすのなら救済はしてやらないということだ。こんな非人道的な言い分が一体どこにあるのか。裁判をやれば、治療費を払ってやらないと。

 この原告の中に重症児の何人かが欠けている。その親たちは言った。
 
『先生、私達は卑怯でしょうか。しかし今、森永から受けているわずかな治療費でも切られるということはつらいのです』。

 私達は『おじさん、無理することはない』、そう言った。何人か欠けているのもそれがためなのだ。原告36名はそういうようなことも踏み切って、この原告となって裁判を提起しているのだ。
 
 これらの被害者は決して金銭の補償を主たる目的にしているのではない。本当の願いは、言い古された言葉だが、やはり身体を元の健康な身体に返してほしい、失った青春を取り戻したいということなのだ。
 
 そして、それが少しでも実現できるようにといって具体的救済案なるものを提案している。まさに、この裁判はこのような意味を持っているわけだ。

 私はこの審理を始めるに際し、最後に裁判長に一言お願いする。
 
 どうか一日も早い迅速な、しかも公正な審理と公正な裁判をお願いする。同時に人間として、子を持つ親として暖かい審理をしてやっていただきたい。
 
 同時に被告森永と国に申し上げる。今からでも遅くはない。日々あなたちが犯している罪を考えて己の責任を率直に認め、真に被害者の救済に当たられんことを切願して止まない。
 
 以上を持って、私の意見の開陳を終わる。

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2012年6月11日 (月)

東日本大震災の不安に付け込んだリフォーム詐欺(さいたま地裁)

 昨年3月11日、日本だけでなく世界を震撼させた大震災の爪痕は、人々の不安感に付け込む犯罪という形で、まだまだ尾を引いているようです。

 今日は、埼玉県南部一帯で発生し、リフォーム詐欺を行った男2人組に関する裁き(審理)が行われました。
 過去にリフォーム工事を行ったことがあるご年配家族が住む一軒家リストを握っている主犯格と、実際に各家庭へ「飛び込み営業」をかけて、面と向かって騙しをする実行犯との2人組。
 すでに懲役の実刑が確定し、主犯格に先立って服役しちゃっている実行犯(子分?)の側が、証人として呼ばれ、2時間以上にわたるノンストップの尋問が行われました。

 ご年配の方は我が家の床下まで潜れないことを良いことに、「この間の地震で、床下の配水管が壊れちゃってますよ」「このままでは水漏れがひどくて、家も傾いてしまうかもしれません」などと、ありもしない適当なことを説明しつつ……
 
 
 「修繕する場合、本来の相場は50万ぐらいなのですが……」と、勿体をつけて、主犯格に電話で連絡を取り「お客様は特別に30万で修理いたします」とサービスしたふりをし、床下でリフォームを行ったふりをして時間をつぶし、お金を騙し取るという手口です。

 未遂に終わったケースを含めて、50軒以上のお宅に乗り込み、約15件から計300万円近くをせしめたといいます。
 
 この件で被害に遭ったお年寄りの中には「床下で傷みが進んでいるという箇所を、写真に撮って見せてほしい」と求めた方もいたようです。かなりいいところまで彼らを追い詰めたわけですが、最終的には30万円程度を騙し取られてしまったようです。……惜しい。
 
 とはいえ、主犯格と実行犯(親分と子分)は、拘置所の中で知り合った当時の「先輩・後輩」の関係を引きずり、事実上の力の差が生じていたようで、分け前はおよそ「9:1」。
 
 それにしても、差が大きすぎるため、弁護人や検察官から実情を相当突っ込まれていました。たとえ親分の「リスト」に基づいて訪問をかけているとはいえ、子分は自分の手足や口を動かしているわけですから、対等でもいいんじゃないか? というわけです。
 でも、子分である実行犯は、出所直後で職を探している状況であり、ある程度の「収入」が得られただけでも満足で、その分け前にいちおう納得していた模様でした。
 
 
 再来週の次回、主犯格の被告人質問が行われます。 東日本大震災、まだまだ水面下で尾を引いています。

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2012年6月10日 (日)

最高裁判所の「キャラ」が なかなか見えないという 相変わらずの問題

20110407130748

 

 次回の国民審査は、どんなに遅くとも、来年夏に行われると噂される衆参同日選挙で実施されるはずです。

 そのときは、東京都議選まで同時にやろうとも言われてますから、ただでさえゼロに近い国民審査への注目度が、ますます薄まってしまうことでしょう。

 それに、次回、国民審査の対象となる裁判官の人数は、最大で12人になりますから、ひとりひとり丁寧に吟味することも難しくなります。

 行く手が結構ハードルだらけになりそうな予感。

 

 最高裁の国民審査に関する、有権者向けの資料を作っています、と言えば、「いつも誰に×を付ければいいのかわからないので、助かります」という反応と、「あんなもの、無駄だから早く廃止してしまえばいいのにね」という反応と、結構まっぷたつに分かれます。

 こうした反応で、初対面の方でもだいたいどういうキャラの持ち主なのか、把握できるので、それはそれで助かるんですけどね。

 私としては、国民審査が導入された経緯はどうあれ、せっかく日本に存在する制度だし、1回やるごとに約6億円の税金が投入されているといわれているのだから、もっと活かすべきだろうと考えています。

 

 それにしても、最高裁の裁判官のキャラクターが見えず、どうすれば関心を持っていただけるかなあと苦心しています。

 良くも悪くも「大物」といわれる最高裁の裁判官も、過去にはいましたけれども、現在は、なんだか折り目正しく無難なことしか言わない方ばかりだなと。

 もっとも、裁判官キャリアからそのまま最高裁入りしたような方は、無難で折り目正しくても別に構いませんが、弁護士出身とか、学者出身の最高裁判事まで面白みが薄いってのは、多様な価値観の持ち主を「法の番人」として受け入れる趣旨から外れてますよね。

 

 5年前に書いた『サイコーですか? 最高裁!』という本では、なんとかして最高裁判所というものに対して、キャラ付け・色付けをしようと試みたわけですが、政治家やに比べるとどうしてもインパクトが弱まってしまいます。

 アメリカなど諸外国の最高裁判事の場合、「この人は保守派で、この人はリベラルだ」なんて、就任当時から思想傾向がハッキリ示されています。

 「たとえ裁判官だって中立な立場なんてありえない」という、人間の持つ自然な心理に沿った現実路線を地で行っているわけです。

 まあ、思想傾向のラベリングをあんまり強調するのも、いかがなもんかな、という思いもありますよ。 「おれは、あいつほどリベラルじゃねえよ」「この問題に関しては、結構コンサバだぜ」という、裁判官ご本人からの(心の)異議クレームもありそうですしね。

 

 それにしても、「中立中道らしさ」というフィクション演出を最重要視する日本の司法の世界は、どうにかならんのかなーと思います。

 わたしは、各裁判官の過去のデータを分析、整理して、『忘れられた一票』のサイトで皆さんに提示しているわけですが、それにも限界があります。

 特に裁判官以外の領域から最高裁に迎え入れられた方の場合、「いっぺん判決を出してもらわないと、何もわからない」という場合が多いです。

 中には、裁判官出身だけれども、最高裁に入った途端、えらく市民寄り(少数派重視)の判決を出すなあ、という方もいらっしゃいますしね。

 それに、国民審査を受け終わった後の裁判官が、意外な判決や意見を示したりして、「えっ、そういう人だったの?」と思い知らされることもあります。

 ……困ったもんだなあ。

 でも、現行の国民審査制度を前提に、できるだけ良い物を作っていこうと思います。宜しくお願いします!

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2012年6月 9日 (土)

仙台市太白区長嶺

201206090958000

 仙台からの帰り道にたまたま見つけたバス停なんですけど、こういう地名があると、仙台に(私だけ)親しみが持てますね。

 日頃から「長嶺さんって、沖縄の人ですか?」と、よく尋ねられます。 「○嶺」という苗字は沖縄に多いようですし。

 でも、以前も書きましたが、沖縄に親戚はいませんし、32歳の頃にようやく初めて沖縄に上陸したぐらいのもので。

 ゴーヤは好きですけどね。

 熊本市内にも長嶺町というところがあり、小学校時分には友人らから、よくイジられたもんです。

 で、仙台にも「長嶺」を発見したということで、写メをパシャリ。

 

 うちのおふくろは、佐竹という旧姓でして、その昔、今でいう茨城とか秋田にいた大名、佐竹氏の遠い末裔なのだと、事あるごとに言っていたもんです。

 家系図的なものは見せてもらったことないのですが、とにかく遠い遠い末裔なのだと。

 なんで佐竹氏の末裔が九州の端っこである長崎・平戸で生まれ育ったのやら、よくわからんのですが……。 よっぽど遠いんでしょうかね。

 でも、「長嶺」という地名が仙台にあることがわかり、東北地方とのほのかな結びつきを感じます。
 東北の人の温かさって、なんとなく九州の人間のそれに近い気がするので。

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2012年6月 8日 (金)

石巻に乗り込んだ、ボランティア偽医者のお言葉集

>>> 被災地で活動の自称医師の男に懲役3年

 東日本大震災の被災地、宮城県石巻市で偽造した認定証を使って医師を自称したなどとして、医師法違反(名称の使用制限、無資格医業)などの罪に問われた住所不定、無職米田吉誉被告(42)に仙台地裁(須田雄一裁判官)は8日、懲役3年の判決を言い渡した。求刑は懲役3年6月。

 検察側は論告で「医師を詐称して得ていた信用を失うのを恐れ、医療行為に及んだ」と指摘。弁護側は「詐称は、被告が医者であるとの周りの誤解が発端だ」と寛大な判決を求めていた。

 起訴状によると、米田被告は石巻市で昨年6月ごろ、医師国家資格認定証の写しを偽造して社会福祉法人に提出。昨年4~7月、1歳男児ら3人に、医師資格がないのに薬の塗布の指示や鎮痛剤の投薬といった医療行為をしたとしている。

 米田被告は石巻市でボランティア活動をしていたが、医師と報道されたことなどで不正が発覚した。(共同)

 [2012年6月8日12時11分]
 

 今日は仙台地裁におりました。

 昨年から東日本大震災に乗じた各地の犯罪を追いかけている一環で、この件は初公判から観続けてきたわけですが、単なるカネ目当てでない犯行です。

 こういう表現がふさわしいかわかりませんが、「新鮮」に感じました。

 震災発生直後から、特に何の縁もない石巻へ飛び込み、海外からの医師団に同行して、いろいろと身体を動かして手伝いをしているうちに、彼も医師だと勘違いされ……

 詐欺師の前科があって、なかなか話を信じてもらえない自分だって、「医師を名乗れば周囲が頼ってくれる」という事実に快感をおぼえたのでしょう。

 義侠心や見栄、自尊心やボランティア批判など、人間の様々な感情がごちゃまぜになった、様々な意味で興味深い事件でした。

 

 もちろん、医師でもないのに、知ったかぶりの治療をして被災者やボランティアメンバーの健康を危険にさらした罪は重いし、日本財団に100万円の支援金を申請して騙し取っているわけですから、途中からカネ目当てに切り替わっていることは非難されるべきです。

 詐欺の罪で起訴されている人の言動は、話半分で聞かなければならないのかもしれません。

 でも、3月12日の時点で南相馬に入り、さらに縁もゆかりもない石巻へ飛び込んで、炊き出しや物資調達などに奔走した行動力と勇気は現実にあったわけで。

 そのうえで、彼の法廷における数々の発言を振り返ってみます。

◆第1回被告人質問(2012/02/10) 弁護側

 「テレビやインターネットで、大震災の深刻な被災状況を知った。(私が当時いた)福井は何ともないが、『これは日本が引っくり返る』と思った。過去に結婚をしていたこともあり、子供たちの将来の為にも、このままじゃいけないと」

 「経験上、今までもらっていたものと同じ薬をもらうと患者は安心すると知っていた。同じ薬が無かったら、似たものを処方していた」

 「本来、メディカル面の支援は日赤がやるべきなんです。災害支援協議会がすべきではない。具体的ニーズを日赤が拾い上げないんです」

 (具体的に、石巻で何をすればいいと考えていましたか?)
 「とにかく『役に立てればいい』という状態でした」 

 (薬やマスクも持って行ったのは、何のためですか?)
 「人の役に立つんじゃないかと思い、手当たり次第に調達した。大阪の西成界隈で安く手に入れました。西成では処方箋が必要な薬を普通に売っているんです。薬は自分たちの為に使うつもりで、あとはもともと車の中に常備してあったもの」

 (過去にも医師の肩書きを名乗ったことがあったそうですが、別に医療知識があったわけではないんじゃありませんか?)
 「勉強は、ずっとやってました。でも、医師になれるはずないと思ってましたし、お金を取って医療行為をしたこともありません。仮に国家試験に受かったとしても、前科があるので」

 (医師でなくても、がれきをどけることでも、石巻の人の役には立てたんじゃないですか)
 「正直、医師の肩書きがあったほうが、より役に立てるのでは、とは思いました」

 (では『医師』として、被災地で何を達成したいと思っていたんですか?)
 「特に具体的に…… やりたいことはなかったです」

 

◆第2回被告人質問(2012/03/16) 弁護側

  
 (あなたの当初の所持金、10万円は何に使ったんですか?)
 「炊き出しや移動のための費用です。炊き出しにはガスを使いますし、自分たちは炊き出しの素人なので、どうしてもガスを使いすぎる。また、電気は発電機から供給するので、そのガソリン代がかかる。1日7000円ぐらい。それと車のガソリン代。 でも、ボランティアに対して寄付で支援してくれる人がいて、手持ちのお金はあまり減らなかった」

 (そういった費用は、あなたたちの持ち出しなのか?)
 「ボランティアは『自己責任・自己消化』といわれてます。本来は自分たちで用意しているし、大きなボランティア団体はかわるがわる物資を被災地にもってきていた。 私たちは、たまに支援物資で腐りそうになっているものを許可を得て炊き出しに使ったりしていた。1日1回、夜に300人以上を相手に食事を配った」

 (医師を名乗って日本財団から詐取した100万円の助成金を何に使ったか)
 「45万円は炊き出しや移動のガソリン代・ガス代、25万円は車の修理・パーツ代、25万円は彼女に渡した。競艇に5万円ぐらい使った。パチンコに1万円ぐらい。スナックで10万円以上は使った」

 (それを合計したら100万円以上になるが、それは自己資金も含めてのことか)
 「はい」

 (あなたは100万円のうち、どれくらいを被災地のために使ったという認識か)
 「炊き出しの45万円と、車の修理25万円」

 (あなたが実際に行っていた医療行為について尋ねますが、まったく的外れということではない。以前にも医師を名乗っていたときに勉強したのか)
 「はい」

 (どうやって勉強したのか)
 「インターネットで」
 
 (なぜ、医師を名乗りたかったのか)
 「昔から、何でも知識を吸収したいということがあって、そのひとつ」

 (そこまであなたを駆り立てたものとは何なのか?)
 「………わかりません」

 (石巻にはいつまでいたのか?)
 「8月初旬ぐらいまで」

 (そのあと、秋湯温泉に行っていたのはなぜか)
 「このままじゃ、自分が壊れちゃうんじゃないかと思いまして。社会が騒ぎ出していることと、自分のやってきたことの間に温度差があって。今回起訴されている内容は、検察が調べてきたことであって、私はもっと多岐にわたって活動してきた」

 (それで?)
 「…………。」

 (自分を偽って活動してきたことが、自分の重荷になってきたということか?)
 「(涙声で) 実際に被災地の現実を見て、現実ってこうなんだなと。震災から何カ月も経って、テレビとかで『私はこういう活動をしてきました』とか『自衛隊の活躍』とか報道されてますが、私のやってきたことは、そんな綺麗なことではなく、街で会った人に対して責務を果たす、ボランティアはそれだけです。それを給料をもらいながらやっている人とは……」
 
 (どういうことか?)
 「あんまりオフィシャルには言えないかもしれませんが、被災地に医師が早い段階で入っていれば、救えた命があった。医師がいないから亡くなった方もたくさんいた。茶番だなと正直思った。もっと困っている人はたくさんいた」

 (そのあと、北海道に行っていますね)
 「はい、育った場所なので」

 (なぜ、育った場所へ行ったのか?)
 「………頭を切り替えたかったから。いずれ、警察にぱくられることはわかっていたので、そろそろメディアが騒ぎ始めた頃だったので」

 (北海道のどこにいたのか)
 「湖です」

 (湖で何をしていたのか)
 「昔から、フライフィッシングが好きで、釣りをやっていました。そういうフィールドが好きで」
 
 (どうして釣りをやりたかったのか)
 「ストレスが当時は物凄かったんです。いろんな人からいろんなことを言われて、自分の心を違う方向へ向けたかった。警察が、日赤とかそういう病院に調べをかければ『そんな医者は知らない』と言うでしょう。でも、私は石巻の人たちから治療依頼の電話をガンガン受けていて、でも、行きたくないんですよ、正直」

 (被災地で医師と呼ばれて、気分は良かったか?)
 「気持ちよくはない。今思えば、なぜそんな流れになってしまったのか」
 
 (身の丈以上に、自分を大きく見せたいという願望はあったか?)
 「あったと思う。これからは、身の丈に合った生き方をしていきたい」
 
 (あなたの活動は石巻の役に立ったと思うか)
 「役に立ったとか……。こんなところ(法廷)に来てまで、いろいろ役に立ったと言えるような立場ではないです」

 

 

 ……ほかにも、いろいろと発言はありますが、ブログの投稿がやたら長くなって、それで一人で潰れて3日坊主になるのが私の癖なので、今日はこれくらいで抑えさせていただきます。

 まだどうなるかわかりませんが、今後、ある媒体で記事になるかもしれません。良くも悪くも「こういう人間がいた」という事実を、私なりに残したいと思います。

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2012年6月 7日 (木)

東京・東大和の放火事件…… 確かに被告人を「真犯人」だと断言できないけれど

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 今日は久しぶりに、東京地裁の立川支部で、朝から夕方まで1件の裁判員裁判(被告人質問の手続き)を傍聴しました。傍聴するだけでもかなりくたびれるのに、裁判員の方々は連日にわたって、法廷での立会いに加えて評議にも参加するのですから、本当にお疲れ様です。

 2009年1月6日に東大和市の酒屋で起こった現住建造物放火事件。8歳の女の子が亡くなるという痛ましい大事件でした。
 9月になって、ひとりの住所不定・無職の男性が逮捕されました。かねてより空き家などで寝泊まりして窃盗を繰り返すホームレス生活を続けてきたといいます。

 直接の証拠はありませんが、現場付近で被告人の顔見知りによる目撃証言、さらには被告人の姿を記録したと思われる防犯カメラ映像も残っています。

 彼は一時期、放火の罪を認めたものの、やがて一転、無罪を主張し始めました。1月6日は、かつて勤務していた建築会社の社員寮ロビーで寝ていたと、アリバイの存在を挙げたのです。
 現に、1月7日にその社員寮に侵入した罪で、有罪判決を受けていました。ただ、1月6日のアリバイは不明です。
 
 そして当初、罪を認めた理由として、「精神疾患があり、ホームレス生活が大変なため、通報してもらい、自分を措置入院させてほしかった」「お世話になった女性警察官が好きで、手柄を取ってほしかった」「嫌いな警察官がいて、捜査をかく乱させたかった」などと供述しています。
 
 これってどうなんでしょうね。警察や検察の連日にわたる厳しい取り調べに耐えかねて、初めは罪を認めてしまった…… という話なら聞きますけれども、警察を挑発する目的で、というのは、どのように考えればいいんでしょう。

 また、措置入院が目的なら、急に翻って容疑を否認したりするのも不可解です。

 

 精神疾患により、「自傷他害のおそれある」人を発見した警察官の「通報義務」は、以下の条文に定められています。

 

◆ 精神保健福祉法 第24条 (警察官の通報)
 警察官は,職務を執行するに当たり,異常な挙動その他周囲の事情から判断して, 精神障害のために自身を傷つけ又は他人に害を及ぼすおそれがあると認められた者を発見したときは,直ちに,その旨を,もよりの保健所長を経て都道府県知事に通報しなければならない。

 

 

 考えがうまくまとまらない精神疾患を抱えていれば、いろんな理由で、あるいは特に理由なく、罪を認めたり、認めなかったり、そういった不可解な言動をする……というのも、理解できる気がします。
 
 ただ、今日の被告人の説明を聴いていると、どうにかして様々な矛盾を解消しようとして、理路整然と、いちおうの理屈をつけているように感じました。
 しかし、様々な面で被告人の気づかない矛盾点が続々と噴出してきて、検察官からいろいろと責められ、「疲れてたから憶えてない」「~だと思う」などと言葉を濁したり、口ごもったりする場面も多かったです。

 その具体的な内容を、逐一細かく挙げていくと非常に長くなってしまいますので割愛しますが、少なくとも本日の被告人の言動に精神疾患の影響は感じられず、ただ、自分の以前の発言と今の発言との食い違いに、どんどん追い詰められていく様子があるのみでした。

 ひとりの裁判員の方が、とても的確な質問をしました。「今はともかく、当時の精神状態はどうでしたか。いろいろと歩き回っていたようですし、それほど精神状態は悪くなかったんじゃないですか」と。
 それに対しては、「確かに悪いってほどではなかった」そうです。

 また、逮捕当時、警察官に向けて被告人が書いた抗議文に「無実」「疑わしきは罰せず」「あの日着ていた服は、もう無い」などという文章が記されていて、とても気になりました。本当に犯行をおこなっていない人が「疑わしきは罰せず」と、裁判のルールにすがったり、証拠のなさをアピールしたりするだろうか……と。
 
 「無実、とは、どういう意味で書いたのですか」と、裁判長が尋ねると、「どういう意味って……」と、またしても口ごもってしまう被告人。
 どうして「自分が犯人ではない」という説明が、スッと出てこないのだろうかと、ますます疑問に思いました。

 確かに、被告人を有罪とする直接証拠はありません。仮に被告人を放火の犯人だとしても、犯行動機がよくわかりません。間接証拠(情状証拠)の積み重ねで有罪の心証を得ることを一切許さない立場からは、被告人に無罪が言い渡されても決しておかしくないのでしょう。

 しかし、「冤罪(≒無実)」と言ってしまっていいものか……? と、私は今、とっても心苦しい立場に置かれています。なにせ、この東大和放火事件の傍聴記録を、『冤罪File』誌の次号(9月下旬刊行予定)に載せるというので。

 ……ね、ぶっちゃけ、コメントしづらいですよ。

 同誌の他のライターさんや編集部は「冤罪だ」と言い切っているだけに、今日から何だか四面楚歌な気分です。

 ここは、裁判で白黒つけたりせずに、措置入院を優先しては…… と言いたいところですが、それでは愛娘を亡くしたご両親(傍聴席にいらしてました)が、とうてい納得できないでしょう。弱りました。

 

 あ、そうそう!
 
 私が本日、法廷にこもっている間に、東電OL事件の犯人として服役している、ネパール国籍のゴビンダさんに、裁判やり直し決定が下りました! 本当におめでとうございます!
 きっと、あと一息です。再び母国の土を踏めるのは。

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2012年6月 6日 (水)

冤罪に遭った人は、品行方正でなければならないか

 明日は、いわゆる「東電OL(女性社員)殺害事件」の犯人の疑いをかけられ、無期懲役の判決が確定し、横浜刑務所に収監されている、ネパール国籍のゴビンダ・プラサド・マイナリさんについて、再審(裁判のやり直し)が認められるかどうかが決定します。

 つい先日、名張毒ぶどう酒事件について、再審を認めない決定がなされたため、イヤな流れが続かないように……と思っています。

 ゴビンダさんとは直接の面識はないのですが、ゴビンダさんを支援し続けている客野美喜子さんとは、5年来のお付き合いで、事件現場となった渋谷近郊の部屋に入ったり、この方の紹介で『冤罪File』誌の仕事をいただく機会を得たという縁もあります。

 ゴビンダさん、10年以上の拘置生活で、すっかり日本語を覚え、手紙の文面も、漢字交じりで難しい言葉もおぼえ、本当に立派だと思いますね。

 

 ご存知の方も多いと思いますが、犯人だと疑うに足りる十分な証拠がないとして、一審:東京地裁では無罪が出されたのです。 しかし、いろんな理由を付けてゴビンダさんは釈放されないまま、二審で逆転有罪となりました。

 ゴビンダさんは、被害女性との情交があったりしたため、それがスキャンダラスに採り上げられるとともに、殺人事件の犯人として疑われてしまいました。

 もちろん、「それとこれとは別」なはずなのですが、たとえ犯人でないとしても、何らかの後ろめたい事情が背景にあると、世間ではなかなか支持してもらえない側面があります。

 冤罪被害者とは辛い立場だと思います。

 

 たまたま明日、私は『冤罪File』誌の取材で、東大和放火殺人事件という裁判員裁判の被告人質問を、東京地裁立川支部の法廷で傍聴することになっています。

 これも「放火なんて私はやってない」と被告人が述べている、いわゆる否認事件なのですが、被告人は半分ホームレスのような生活をし、たびたび空き巣をしながら暮らしてきた過去があるようで……。

 たとえ火をつけてないとしても、世間の同情・共感を得るのは、はなはだ難しいケースなのかなと思います。

 被告人についている弁護士さんですら、「本当にやってないのかな……?」と、若干疑っているらしいので、一筋縄ではいきません。

 

 なにはともあれ、明日は朝から晩まで、この1件を集中して取材してきます!

 明日は偶然、「冤罪」づいていますね。

 
 

Photo

(↑東京地裁立川支部庁舎・オープンの日 2009/04/20)

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2012年6月 5日 (火)

小学生からわかる 裁判所のつくりかた (1)

 皆さん、お久しぶりです。

 この半年ほどは個人的に取り巻く状況の動きが激しく、なかなか、このブログの更新に手が回らなかったのですが、これから何とか更新を続けていこうと思います。

 

 今回は、今ひそかに温めている「子供向け法律本」の企画を、ここで少しずつ公開していこうと思います。

 「人が人を裁く」という行為に、何が必要で、何をやってはいけないのか、小学校の教室を舞台に、物語形式で解説する、新しい刑事手続きの解説本ができないかと、ここ数年考えてきました。

 ただ、刑事手続きを体系的に並べて説明するよりも、物語の登場人物たちが、悩み、不満を言い合いながら、少しずつ「よりよいもの」を築き上げていく過程を経て、「なぜ、この手続きが必要なのか」を、心で感じられるものができないかなと。

 まずは、冒頭部分を試しに書いてみました。

========================================

 こうへい君は、声を上げて泣いています。日に焼けた顔じゅうから、涙をしぼり出すかのように。

 「オマエ、何泣いてんだよ。気持ちわりぃ」
 「謝れよ、こうへい! オマエがやったんだろ!」

 みのる君とまこと君が、ワイワイ騒ぎ立てて、こうへい君を、じわじわとメンタル的に追いこんでいきます。
 
 「うぇぇぇぇぇぇ~ん、ヒック、ヒック、うわわあああぁぁぁぁぁ」
 「ヤ~バいぜー、ヤ~バいぜー! せ~んせえに、言うてやろ~」
 「せーんせーに、言うてやろ~~」
 「おい? 何を先生に言うんだ?」
 教室での騒ぎを聞きつけて、担任の先生が、みのるの背後から近づいてきました。

 担任は、みんなから「えんま先生」というあだ名で呼ばれています。

 えんま先生は、ウソをつく人が大嫌いらしいです。
 えんま帳という記録を読みながら、死んだ人を裁く……と言い伝えられている、えんま大王の話を聞いたことありますか。

 「ウソつきはね、えんま様に舌を抜かれて、二度としゃべれなくさせられるんだよ」と、親が子供をしつけるとき、しばしば話題にあがる、有名な怖いおっさんです。

 死んだあとでなきゃ会えないはずのえんま大王が、まるで冥界から降臨して、この桜ふぶき小学校に現れたかのよう。

 えんま先生はクラスのみんなから恐れられています。最近は子どもたちに厳しくて怖い先生が少なくなったので、えんま先生の存在を頼もしく思う先生方もいますが、たまに、別のクラスの揉め事にまで首を突っ込むので、一部の先生たちからは うっとうしがられています。

 ちなみに、担任は遠藤マサルという名前なので、それを略して「えんま先生」と呼ばれ始めたんじゃないか、という説も有力です。
 最近結婚してムコ養子に入り、本名が阿久根マサルに変わりましたが、結局、略せば「あくま先生」になるので、それはそれで合ってるね、という話にもなっています。

 「えんま先生っ! これです!」

 ハキハキした口調の仕切りたがり屋、クラス委員の のりこさんが、教室の隅っこの床を指さしました。廊下から見ると、その箇所だけキラキラと美しく光って見えます。割れたガラスのかけらが散らばっているのです。
 
 「うわっ、割れてんじゃねえか! 誰だよ!」

 えんま先生の怒号が、教室じゅうに響きわたります。のりこさんが手ぎわよく、ほうきとちりとりを持ってきました。

 「先生、このままだと危ないから、掃除したほうがいいですよね」
 「ちょっと待て! まずは事件現場を確保せねば!」

 えんま先生は、クラスの子どもたちがケガをしていないか心配する余裕を、すっかり失っていました。
 ぎざぎざにひび割れた窓ガラスの隙間から、風が吹き抜けてきて、泣きじゃくる こうへいの髪をそっとなでました。こうへい君も、その心地よさにひたる余裕などありませんでした。
 
 「誰がやったんだ! いつから割れてんだよ! 知ってるやついるか?」
 一方的にまくしたてるえんま先生の目を見ながら、告げ口したのはみのる君たちでした。

 「こうへいがやったんだと思います」
 「こうへいです。最初に」

 その言葉を聞いて、こうへい君の両肩がピクンと縮みました。

 「こうへい、そうなのか?」
 「………」
 「どうなんだ?」
 「…………違います」
 「え?」
 「ぼ、ぼくじゃないです」
 「よし、職員室に来い」

 えんま先生の「職員室に来い!」は、もはや言い逃れできっこない合図なのです。

 ウソが嫌いなので、何か悪いことをしても、「本当のことを正直に言えば許すぞ」と、かっこいいことを言います。それで理由を答えると「言いわけするな!」なんて、ムチャを言うこともあります。それで、何時間も説教が続くこともあるんです。

 「ぼくじゃないです! ぼくじゃないです!」
 
 こうへい君は、震える声で、そう繰り返すしかありませんでした。

■考えてみよう

 これを読んで、えんま先生がやったことの、よいところと、よくないところを発表してみましょう。 よくないところは、どうしたほうがいいと思いますか。

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