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2012年8月31日 (金)

日本史上に燦然と輝き、シビれる「弁護士弁論」の備忘録(2) 『チャタレー夫人の恋人事件』正木ひろし弁護士

 
 

 今では当たり前のように販売中。

 それどころか映画化もされ、1クリックで翌日にはクロネコヤマトが本やDVDを届けてくれちゃう時代ですが……。

 かつての発禁文書「チャタレー夫人の恋人」をめぐる検挙・裁判の話は、高校1年の現代社会の教科書で触れてあって、それで初めて知ったもんです。

 当時は、男子生徒しかいないクラス(男クラ)に属していたものですから、エロ小説をめぐる検挙・裁判の話だと聞き、教室中がニヤついた雰囲気に包まれたことをよく覚えています。

 しかし、これは表現の自由をめぐる真剣な戦いだったのですよね。正木ひろし弁護士が弁護人に就いていた事実も知りませんでした。
 

 ((参考カテゴリ))
 「らしくない弁護士 正木ひろし」
 

 被告人は翻訳を実施した大物作家の伊藤整、そして版元の小山書店代表。

 最終的に二人は、わいせつ文書頒布罪の共同正犯と認定され、有罪判決(小山被告人に罰金25万円、伊藤被告人に罰金10万円)が言い渡されたわけですが、いったんは一審・東京地裁で伊藤被告人は無罪とされていました。

 「チャタレー夫人の恋人」の日本語訳の出版を企画したのは小山書店であり、伊藤整はその翻訳を依頼された立場。よって伊藤被告人は、わいせつ文書頒布の共犯ではないとされたからです。

 ただし、二審で協力関係が認定され、逆転有罪となりました。

 以下は、いわゆるチャタレー事件をめぐって、一貫して被告人両名の無罪を主張する、最高裁判所・大法廷における正木ひろし弁護人の舌鋒鋭い弁論(抄)です。

 

 

 ……もとより、限りある時間、限りある陣容の上に、極めて限りある経験と知能を持つ者にすぎません故、裁判官又は検察官その他、現在及び将来の一般社会の眼から見たならば、さだめし欠陥の多かったことを指摘されるでありましょうし、また指摘されることによって、われわれは反省の資とし、日本文化のため、捨石の役目を果たすことができると信じているものであります。

 世間では、本件の対象となっている物件が、日本の文化資材であるという意味から「文化裁判」と呼ぶ向きもありますが、実は本件の裁判それ自身が、その運営を通じ、過渡期における日本国民の法律思想、ことに未だハッキリと身についていない民主主義を、既に我等のものとなっている民主憲法と結び付け、それを国民の血肉と化し、日本文化をして、現代世界第一流の文化の一環たらしめるように、そこまで押し上げる働きをさせる意味に於いて、すなわち「文化を向上させる権利」という意味に於いて、「文化裁判」と呼ぶこともできると信ずるものであります。

 ことに敗戦の結果、日本の国土より離脱した朝鮮、台湾、沖縄等の住民は、国籍は日本でなくなった今日も、いまだ日本語を利用し、日本語を通じて日本文化の深い影響の下にあると思いますので、その日本の言論が、いつまでも彼等の信頼を保ち続けることができるかどうかということは、将来に亘って、いよいよ重大となります。

 本件はかように日本語にある文化の輸出の問題にも深い関係があると信じます。なおまた、本件のために出廷した各証人たちが、過去並びに現日本を指導してきた各方面の知名の士であり、或は多数の国民の声を代表する選手として選ばれた有識者でありましたので、将来、この裁判記録が1951年当時の日本の文化の状況を研究する人達のためにも、歴史的好資料となるだろうという意味においても、文化の名に値する裁判だと信じます。

 本件の被告人たちは本件の著作物を日本国民に提供した動機と同じ動機、すなわち、日本文化の向上と、非民主的な一部の官僚的思想打破の目的を以って、本件裁判を迎えたのであります。

 日本文芸家協会、日本ペンクラブ等の文化団体、その他の学術研究団体等が声明書を発したり、或いは個人の資格を以って応援したことは枚挙にいとまがなく、また、自分から進んで本件の弁護人側の証人となったり、有力な資料を提供されたりしたことは、個人伊藤或は個人小山の無罪を要求するといわんよりは、伊藤、小山を有罪にしようとする無知と不正と不合理に対する文化的良心の爆発にすぎなかったのです。
 
 他を責める者は、これもまた責められる位置に立って居ります。我々5人の弁護人、並びに2名の被告人は、本公判に臨むに当って、主任弁護人が第1回の公判廷の冒頭で陳述した如く、一言一行いやしくもせず、法律を尊重し、裁判の神聖を穢すことのないよう、細心の注意を払うと共に、いささかたりとも非論理、非良心、非民主性、無智、無責任等のないよう、出来る限りの努力を払ったつもりであります。

 「戦後文学論争 上巻」(番町書店)より

 

 実態は、不倫の恋を採りあげたフランス作家のエロ小説に関する裁判ではあるのですが、正木ひろしは果敢にも「文化裁判」と名付け、決して卑俗な争いではなく、国民の基本的人権を初めて保障した 戦後の日本国憲法が機能するか否かの試金石であると再定義しました。

 時は昭和26年。大日本帝国の敗戦から6年、日本国憲法が施行されて、まだ4年目という時期です。
 戦前の国家体制を痛烈に批判してきた正木弁護士ですから、ここで敗北し、国民の表現の自由が単なる絵に描いた餅であるとの現実を突きつければ、またあの頃の暗黒政治が復活するとの生々しい恐怖が胸に迫っていたことでしょう。

 
 正木弁護士の弁舌は熱を帯び、さらに壮大な方向へと翼を広げていました。遡って、当該弁論の冒頭部分を採りあげます。

 

 

 (敗戦の事実を指摘、戦前の政治を批判し)……かかる非民主的な政治が、いかに脆弱であり、いかに危険であり、いかに国民を不幸にするかということは、すでにこの敗戦によって、徹底的に全国民の前に証明されたのでありました。新日本は、新憲法とともに始まったのであります。
 この憲法を生かすか、殺すかということは、ただに全日本国民の来るべき運命を決するほか、現世界人類の禍福にも重大な影響を及ぼす可能性のあることは、戦後の国際関係に少しでも注意する者が、等しく感じ、かつ、憂慮するところであろうと思います。
 チャタレー事件は、そのような時機に発生した不思議な使命を持っている事件であります。

 今日、世界を恐怖に陥れている原子爆弾の発明は、世界の学者がニュートン以来の古い物理学体系を捨てて、新しい物理学体系を受け容れた結果といわれていますが、この二つの物理学体系の真偽を決定したのは、1919年、アフリカにおける皆既日食の瞬間に、たまたま太陽付近を通って光る小さな光の光線が、太陽の引力によって僅かながら太陽の方へ引きつけられるや否やという、極めて微妙な実験観測でありました。
 おそらく、アフリカの土人等にとっては、実験者の群れが右往左往している様を見て、ただ一つのお祭り騒ぎとしか映じなかったでありましょうが、世界の物理学者たちは、括目してその結果如何を待ち設けました。

 チャタレー裁判事件は、まことに微細な事件でありますが、現日本において、旧憲法的な考え方が支配するのか、新憲法の精神が支配するかを決定する、最重要なる実験用の星の光だったのであります。

 

……なんだか、脱線したものの修正してうまく着地したように見えますけど、こじつけといえばこじつけなのかな。

 

 古いニュートン物理学を疑い、質量がエネルギーに化けることを見抜いた相対性理論を構築できなければ、原子爆弾が誕生することはなかった。

 

 ……広島と長崎の民間人へ向けて米軍が2発の原爆を投下した被害と記憶が、まだ生々しく残っていたと思われる時期に、まるで「われわれは今、法体系における原子爆弾を発明できるかどうかが試されている!」と、原爆を肯定するかのような発言をする なりふり構わぬ大胆さが印象的です。

 なにしろ、警察の拷問取り調べを証明するため、被疑者の墓を掘り起こすなど、目的達成のために手段を選ばない人ですからね。

 でも、それだけ当時は、原子力エネルギーという新発見が良くも悪くも画期的で、人類の明るい未来を予感させるほどの希望が託されていたともいえるのでしょう。

 原爆を使った米軍はどうしようもないが、原爆の発明そのものは人類文明の躍進なのだと。 技術革新と善悪を切り分けて捉えていたのかもしれません。 これも理性の発動だといえます。

 

 現代における「文化裁判」は、はたしてどんなものでしょうね。

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2012年8月26日 (日)

映画『死刑弁護人』を観て……

 201208251551000

 

 誰も引き受けないような凄惨な殺人事件の弁護人を請け負うことで知られる、安田好弘弁護士。彼の仕事ぶりと半生を終始取り上げたドキュメンタリー映画です。

 都内ではJR東中野駅前の「ポレポレ東中野」で今月いっぱい上映されています。

 

 ((参考エントリ)) 『最高裁ドタキャン弁護士 安田好弘さんの基礎知識』2006/03/24
 

 

 オウム真理教事件、和歌山カレー事件、光母子殺害事件という、日本で生活していれば誰もが知っているような数々の著名殺人事件の弁護を手掛けてこられました。

 私はこの人、単純な好き嫌いで言うと、好きなタイプの弁護士ではありません。

 確かに、刑事弁護人としての使命感は、日本でも指折りのものをお持ちだと思います。同時に多くの大事件を担当し、膨大な仕事量をこなし、日本中を駆けずり回っている。費用もほとんど持ち出しでしょう。
 それでも思い通りの判決が出ないことが多々あり、それでも信念を曲げずに貫いている。常にファイティングポーズを崩さない姿勢、エネルギッシュな行動力には敬意を表します。

 また、滅びの美学のような要素も感じますね。

 殺人事件は必要的弁護事件ですから、弁護士資格を持つ誰かが弁護人に就かない限り、有罪判決を出すことすらできない。それどころか裁判すら始まらないのです。

 その汚れ役を買って出るのは、並大抵での覚悟でできるはずがないでしょうし、刑事裁判の運営という公共的利益においても、一定の貢献をしているといえます。

 一方で、公判期日に欠席するなどの引き延ばし工作が目立つので、その点はマイナス材料という他ないですが、かといって永久に引き延ばすこともできないわけで、いずれは判決が出されるでしょうからね。

 

◆ 刑事訴訟法 第289条
1 死刑又は無期若しくは長期3年を超える懲役若しくは禁錮にあたる事件を審理する場合には、弁護人がなければ開廷することはできない。
2 弁護人がなければ開廷することができない場合において、弁護人が出頭しないとき若しくは在廷しなくなつたとき、又は弁護人がないときは、裁判長は、職権で弁護人を付さなければならない。
3 弁護人がなければ開廷することができない場合において、弁護人が出頭しないおそれがあるときは、裁判所は、職権で弁護人を付することができる。

 

 
 職権で付された弁護人は、どうしても「裁判長から命令されて、やらされてる感」が拭えないかもしれません。安田弁護士のような方のモチベーションの高さには敵いません。

 安田弁護士が強制執行妨害容疑で逮捕された際、彼の弁護人を引き受けたいと志願した弁護士が、全国から山のように押し寄せたと、作中で紹介されてましたし、人望は厚いのだと思いました。

 そうした事情を考慮しても、やっぱり苦手です。

 目的と手段を履き違えているところが。

 安田弁護士が担当した殺人事件のひとつに、1980年に発生した「名古屋女子大生誘拐殺害事件」があります。

 安田弁護士の献身的な努力むなしく、彼には死刑判決が言い渡されて確定したのですが、安田弁護士は「恩赦」の申し立てを助言して、死刑言い渡しそのものの取り消し、ないし軽減を求めようとしたんですね。

 しかし、彼の死刑は執行されます。恩赦の申し立てを検討している事実だけでは、死刑執行の可能性を止められないからです。

 

◆ 刑事訴訟法 第475条
1 死刑の執行は、法務大臣の命令による。
2 前項の命令は、判決確定の日から6箇月以内にこれをしなければならない。但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない。

 

 安田弁護士は、こういう主旨のことを述べて、当時を回顧します。
 

 「早く再審請求しておけばよかった。そうすれば彼はまだ生きていられた」

 「事実をでっち上げてでも再審請求すればよかった」

 事実をでっち上げてでも? ……その一言に心がズキンと痛んで、その後に作中で美談のように綴られている安田弁護士の弁護活動の様子も、素直に受け取れなくなっていました。

 もちろん、話に勢いがついて大げさな表現で述べたとも考えられますが、死刑判決を回避するために、なりふり構わぬ大胆な活動をする方なので、時間にすればコンマ数秒程度であろう「でっち上げ」発言を、どうしてもスルーできませんでした。

 あるいは、検察が事実をでっち上げてるから、「こっちもでっち上げて構わない」という確信がおありなのか。

 

◆ 刑事訴訟法 第1条
 この法律は、刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする。

 

 たびたび書いていますが、私自身も、究極的には死刑制度を廃止すべきだと考えています。
 とはいっても、あんまり理念的な考えに基づいているわけではなく、人を殺めるという取り返しのつかない過ちに落とし前をつける対価として、その者の「死」が本当に釣り合うんだろうか? という問いに基づいています。
 むしろ、遺族の悲嘆や怒り、諦観などの人間的感情に正面から向き合わせ、生きて苦しむべきではないかと。

 少なくとも、「国家権力を忌み嫌う感覚」からスタートして、権力を攻撃するネタのひとつとして採用する死刑廃止論ではありません。

 

 確かに、十分な社会的武器を持たずに虐げられている人のために、自らの力を貸すのが、民間における権力者である弁護士の望ましい姿だと思いますよ。一般論ですが。

 とはいえ、安田弁護士は自らの担当の刑事被告人に不自然に肩入れ過ぎていて、被告人が犯した罪の重大さ・凄惨さを敢えて、自らの行動原理から排除しているように思えるのです。被告人の冤罪を主張しているなら別ですが。

 安田弁護士が被告人に寄せる同情の仕方は、率直に申し上げて「没頭」や「自己投影」に近く、語弊があるかもしれませんが純文学的な印象を抱かせるんです。法律学は一応、社会科学なんですから。

 なので、犯罪被害者や裁判官・検察官・警察官など、それぞれの事件当事者・裁判当事者に対する立場への一定の目配りが抜け落ちている点にも、強烈な違和感があります。
 「敬意を表せ」とまでは言いませんが、せめて、それぞれの立場に配慮した発言や行動があるべきです。

 戦う姿勢は素晴らしいのですが、生身の人間を相手にして戦っているとは思えない営みに、うすら寒さを覚えるのです。

 人間を殺すのも人間なら、権力を動かすのも人間ですからね。

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2012年8月11日 (土)

「ニッポンのザル法」ランキング?

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フリー素材屋Hoshino

 

 

 いやー、ザルそばが美味しい季節ですね。

 「会社法務A2Z」(第一法規)の次号で、オリンパスの内部通報報復人事に対する最高裁判決(6月のやつ)を受け、

 「公益通報者保護法は、ザル法じゃねえのか?」というところを採りあげようとしています。

 それで思ったんですが、この日本に数多ある法律のうち、抜け穴だらけのザル法って、どれくらいあるのかなと。

 法律の条文構成が中途半端なために、システム的な面でザルになってる場合もあれば、

 一般道の速度規制のように、標識に書いてある数字よりも気持ち上乗せで事実上の流れができちゃってるような、結果的形成タイプ・赤信号みんなで渡れば型のザルもあるでしょう。

 憲法9条みたいに、その人の人生観や価値観で、ザル状態が許せるか許せないか、評価が変わってくる場合もありそうです(個人的には、歩み寄りが前提とならない議論が面倒くさいので、脇に置いておきたいですが)。

 目の細かいザル法、荒いザル法、いろいろあるのかもしれません。

 抜け穴の大小や多少・放置期間などをポイント換算にして、ザル法ランキング・ザル法カタログのようなものをつくるのも、面白いかもしれませんね。
ただ、人間の作ったものは完璧ではありえないという前提に立てば、人工物たる法律のごときは、全てザル法だといえるかもしれません。

 それはともかく、皆さんがオススメの、美味しいザル法を募集します! 重たい話も、面白いネタも欲しいです。どうぞ宜しくお願いしま~す。

 

 今週は仙台地裁に行っておりました。 街中の商店街は七夕一色でしたね。 日銀の仙台支店にも七夕飾りが付いてましたから。 チラッと外から見ただけですが。

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 仙台市内、特に都心部に関しては、東日本大震災の傷跡をだいぶ克服しているように見えます。 人々の心の中までは窺い知れないので、あくまで街の様子から感じた限りですけどね。

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